私は堅いベッドの中で眼を醒ました。
眼を醒ましたと言うのは、あまり適切な表現ではないのかもしれない。
四六時中意識がおぼろだった。
どこからどこまでが眠りなのか、自分でもよくわからない。
夜もなければ昼もない。
激しい苦痛があるだけだった。
その苦痛がいくらか薄らいだとき、トロトロと眠りのようなものがあった。
だが、それもそう長い時間ではない。
すぐに骨を裂く激痛が襲ってくる。
そんなあいまをぬって、ほんのいっときだけ意識が、脳の働きが、いくらか鮮明になるときがある。
それが、目醒めと言えば目醒めだった。
鼻にも喉にもゴム管が通っている。
そのわずらわしさを感ずる気力も、もう大分前からなくなっている。
肺から始まった病魔は声帯を冒し、今は一声も出せない。
筆談をするにも手の力が萎えて、うとましい。
全身がベッドの中にめり込み、こうして痛みがいくらか薄らいでいるときでさえ、自分の体が自分のものとは思えなかった。

もう死ぬより仕方がない

何週間も前にそう考えた。
初めのころには、死が恐ろしかった。
自分が数十年生きて馴染んできたこの世界から、ある日突然自分がいなくなるという現実が、どうしても実感として理解できない。

簡単に死んでたまるか

そうも思った。
まだまだ五十代。
そうやすやすと死神に持っていかれたらたまらない。
家族のこと、会社のこと、気掛かりなことが山ほどあった。
しかし全身の苦痛が日増しに激しくなるにつれ、そんな事情がいっさいがっさいどうでもよくなってしまう。
二人の子供は大学生だし、妻には家もあるし、保険もおりるだろう。
会社は…私一人がいなくなったところで仕事に支障が生ずるはずもない。
病床で考えられるのは、せいぜいここまで。
それから先はただ灰色の空白があるだけだった。
生きたまま刻々と肉体が蝕まれていく過程は、私が漠然と想像していたよりもはるかに恐ろしい。
まるで骨と骨の間に万力をこじ入れ、ギリギリと引き裂くようだ。
それが毎日毎日何回となく繰り返して続く。
もうこれ以上の苦しみはないと思った、その次の瞬間に、もっと激しい苦痛が襲ってくる。
鎮痛剤も今ではほとんど効き目がない。
ただ塩を浴びたなめくじみたいに身をよじって苦しむよりほかにない。
なんのために?
なんのためでもない。
ただ死ぬためにこうして苦しむ。
それだけだ。
死に対する恐怖より、苦痛に対する恐怖のほうがはるかに激しい。
いくらか痛みの薄らいでいるときでも、いまにやってくる苦しさを恐れて私はおののいている。
そして、苦痛はかならずやってくる。

助けてくれ

何度言葉の出ない唇で叫んだか。
今となっては、ただ"あれ"を待つよりほかにない。
私は灰色の天井に映った、輪形の影を瞼に宿しながら朋友の佐伯一郎のことを思った。
佐伯の言った言葉が、一つ一つ末期の福音のように耳の奥に甦ってくる。


"あれ"を言い出したのは、佐伯のほうだった。

もう三年以上も昔になる。
ゴルフ場のテラスでビールを飲みながら…。
あのころはあんなに元気だったのに…われながら信じられない。
どうして佐伯が突然あんな奇妙なことを言いだしたのか…ああ、そうか、その少し前に佐伯の身内に不幸があって、それで佐伯はあのことを考えたのだろう。
浅黒い顔に闊達な笑顔を載せて、
「オレたちの年になったら、たまには自分で死ぬってことも考えなくちゃいかんな」
と、佐伯は言った。
そう言いながらもその実、彼自身本気でその問題を考えている様子はなかった。
「そう。いつかは死ぬんだからな」
「死ぬのは仕方ないが、どうせ死ぬのなら飛行機事故かポックリ病。苦しんで死ぬのはいやだ」
「しかし、こればかりは当人の希望どおりにはいかんぜ」
「それは、そうなんだが…」
佐伯はタバコをくゆらしながら言い淀んだが、ふと思い出したように、
「つい最近、叔父貴が死んだだろう。ひどい苦しみようでな。毛虫みたいに身をよじりながら一ヶ月以上も生きていたんだ。どうせ死ぬんなら、なんのために苦しませておくのか、オレにはわからん」
「家族の者としちゃ、それよりほかにないだろうさ」
「気持ちはわかるけど、あれは生き残る側のエゴイズムだな。あの苦しさはただごとじゃないぜ。さんざん苦しんだあとで、結局駄目なのはわかりきっているんだ。オレが病人なら間違いなく早く殺してほしいと思う。そうだろ?」
「まあ、そうだな」
「本当にそう思うか」
佐伯は少し気色ばんで念を押した。
「ああ。オレだって痛いのは嫌いだ」
そう答えた私の気持ちにも嘘はなかった。
佐伯はウンウンと顎を撫でながら頷いて、
「そうなんだ。だから、どうだい、おたがいに元気なうちに約束しておこうじゃないか」
「なにを?」
「安楽死友の会を作るんだ」
「安楽死友の会?」
「うん。今のとこ、会員はあんたとオレだけでいい。どちらかがどうにも助からない病気になったとしよう。苦痛がものすごかったり、植物人間になったりしたら、生きている意味がない。当人にとっても生き続けるのは本意じゃあるまいし、家族の苦労も大変だ」
「ああ」
「そんなときに、片方が冷静に判断して、こっそり病人を安楽死させるんだ」
「なるほど」
「あんたとオレの間なら、約束が守れそうな気がするからな」
佐伯と私とは高校時代からの友人だ。
サッカー部では文字通り同じ釜の飯を食った。
大学を出ると、それぞれ違った会社に勤めたが、親交の深さは変わらなかった。
おたがいにこれ以上に親しい友だちはいなかった。
私は小首を傾げて、
「しかし…うまく殺せるかどうか」
「その点はもちろん考えた」
「どうする?」
「薬はオレが手に入れる。あんたにもあらかじめ分けておこう。どのみちそのときの病人は瀕死の状態だ。本気になって殺してやろうとすれば手段はいくらでもあるさ」
「そうかもしれないが…」
「実行できないのは、病人を取り巻く連中がみんな罪の意識を背負いたくないからさ。言っちゃあわるいが、本当の親切心がないからなんだよ。オレは自分の叔父貴の死にざまを見て、つくづくそう思ったね。病人が苦しむのはな、生き残ったやつが"あれだけ手をつくしたのに駄目だった。仕方ないんだ"って、そう思うためのものさ。死んで行く者のラストサービスだよ、あれは」
「うん、うん」
「しかし、家族にねがっておいても、なかなか殺してはもらえないし…そこで、おたがいに約束しておこうというわけなんだな」
「本気かね」
「ああ、本気だ」
「まかり間違えば殺人罪だぜ」
私がこう言ったとき、それに答えた佐伯の凛々しい眼の色を忘れることができない。
彼は少年のように明るく笑って言った。


「そのとおりだ。しかし、かいのない苦しみを続けている友人のためなら、オレはその危険を負担する覚悟があるぜ」
私は驚いて佐伯の顔を見上げた。
男同士の熱い友情が、五十歳を過ぎた男には照れくさいほど真摯な信頼感が、二人の間にフッと漂って消えた。
いや、私だけがそう信じたのかもしれないが…。
「どうかね」
佐伯は視線を鋭くした。
「よかろう」
「じゃあ約束しよう」
初めはその場限りの、ただの冗談だと思っていたが、佐伯は思いのほか熱心だった。
四、五日たった昼休みに私のオフィスに訪ねて来て、彼はカプセルを置いた。
「なんだ、この薬は?」
「忘れたのか。ゴルフ場で約束したじゃないか。安楽死友の会だ」
「ああ、あれか」
「錠剤一つを飲み水の中に入れればいい。点滴液の中でもいい」
「死体解剖をしたら?」
「それはわかる。しかし、瀕死の病人が死ぬんだ。そのケースはないさ」
「わかった。預かっておこう」
「じゃあ、友の会の設立を祝して今夜一杯飲むとするか」
「よかろう」
あの夜は二人連れだって、梯子酒を楽しんだ。
「友の会バンザーイ」
「友の会のために」
ジョッキをあげて乾杯した風景も、私は今、はっきりと眼の裏に呼び戻すことができる。
とはいえ、私はこの約束をそれほど真剣なものとは考えていなかった。
佐伯がいい加減な気持ちで言ったのではないと、それはよくわかっていたが、なにぶんにもあのころは死が遠かった。
死を差し迫ったものとして考える必要がなかった。
それが…たった三年のうちに事態が急変した。
死は思いがけなく私のすぐ近くにいた。
こうしてベッドの上で苦しんでいると、いやでも"あれ"を思わずにいられない。

あいつは約束を守る奴だ

しかも私は、自分の病状がまさに友の会の発動をうながす状態にあると確信している。

いまに佐伯がやってくる。
それが私の死ぬときだ

そう考えるのは、ある種の恐怖の原因とならないでもなかったが、そんな恐怖も激痛が始まると、たちまちどこかへ吹き飛んでしまう。

早く来てくれ。もうオレは駄目だ。早く…早く…頼む

必死に念じながら、私はただ、病苦の跳梁に身をゆだねるばかりだった。

待てよ。あいつが来ないのは、まだ…オレの病状に脈があるからかな

かすかな明るさが心をよぎったが、すぐに光も消えた。
病魔が日を追って着実に全身を冒しているのは、だれよりも私自身がはっきりと知っている。
家族の者だってそれを知らぬはずがない。
とすれば、その知らせが佐伯のところまで届かぬわけもない。



私はわずかな水を口に含むときにも、そこに佐伯の贈り物のあることを思った。

点滴の装置を見上げながらも、そこに佐伯の善意が潜んでいるのを願った。
廊下に足音が聞こえる…。
ささいな物音にも佐伯が来たのではないかと、おぼろな意識を研ぎ澄ました。
そうしているうちにも苦痛はまた襲ってくる。
痛みはさらに激しくなる。
苦しさのあまり鉛の体が弓のようにしなう。
全身をどうよじってみても、苦しみは少しもやわらいでくれない。

早く来てくれ。
一日二日長く生きたって仕方ない

混濁した脳裏に佐伯の明るい笑顔が浮かんだ。
その表情は明るすぎるようにも見えた。
急に不安が駆け抜ける。
笑顔の背後に深い悪意が潜んでいるような気がしてならない。

どうして、あいつが

半生の思い出が、断片的に心に浮かんだ。

そう言えば、佐伯が金を借りに来たことがあったっけ

奥さんが病気で家がゴタゴタしているときに、佐伯は女に手切れ金を支払わなくてはいけない羽目になった。
どうしても内緒の金を捻出する必要があって、私のところに百万ほどの金を借りに来た。
私は断った。
金がなかったわけではないが、あのときはこっちも家を買おうか買うまいかと考えていた。
佐伯ら高利の金に手をつけ、その後大分苦労したらしい。
会社の役員になれなかったのも、そういう金銭問題と無関係ではなかったようだ。

今でも恨んでいるのだろうか
そんなケチなやつだったのか

考えてみれば、長いつきあいであればあるほど、心の奥底にライバル意識や深い怨嗟が積み重なっている。

もしかしたら…あのときの恨みかな

学生時代に、喫茶店のウエイトレスを奪い合った、、
私はうまく佐伯を出し抜き、軍配は私のほうに上がった。
そのウエイトレスとの仲も、そう長く続かなかったし…佐伯はそんなこと、すっかりわすれてくれたものと考えていたが…。
一つ一つ思い返してみると、親友などという概念がいかに虚妄であったか、そのことばかりが心に甦ってくる。
また激痛がこみ上げてきた。

馬鹿野郎
なにをしている
オレを苦しめるのが、お前のほんしんだったのか
殺人者の危険を冒してまで、助けに来てくれると言ったのは、だれなんだ

私は長い苦痛の時間を通して、ただひたすら友の助けを祈り、その裏切りを呪った。
呪いながらも、また繰り返して友の助けを願った。

業病の苦しさは、それを体験した者でなければわからない。
しかも体験した者がみんな死んでしまうとなると、いったいだれがその本当の苦しさを語ってくれるのだろうが。
病人たちは、ベッドの中でのた打ち廻りながら、こらえ、苦しみ、祈るよりほかにない。
「馬鹿野郎。なにをしている。オレを苦しめるのが、お前の本心なのか。せっかくの約束はどうなったんだ」
その男はベッドの中で繰り返し繰り返し呻いた。
その男…佐伯一郎も同じ病魔に冒され、友の決断を待ちながら、その不誠実さを長く、苦しく、死の一瞬まで呪い続けていた。