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月末の残業を終え、事務室を出たのは夜の十一時に近かった。
まったく人使いのあらい会社だ。
部屋にはだれも残っていない。
ドアの脇のスイッチを押すと、事務室が急に暗黒の倉庫に変わった。
コト、コト、コト…。
私の靴音だけが廊下に響く。
ロッカールームはひっそりと静まりかえって、まるで西洋の死体置き場のようだ。
「死体置き場…」
どうしてそんな言葉を思い出したのだろうか。
やはりN君のことが頭のどこかにのこっているのかな。








N君は高校を終え、私といっしょにこの会社に入った。
ひとめ見たときから気弱な印象の男だった。
女にしたらさぞかし美人になりそうな、そんなやさしい面差しで、性格も顔立ちに負けず劣らずおとなしい。
おとなしすぎるくらいに…。
言っちゃあわるいが、そばにいると、ついついいじめたくなってしまう。


そのN君が社内でも一番底意地のわるいS課長のところに配属されたんだから運がない。
N君もずいぶんとつらい思いをしただろう。
実際の話、S課長の新人いびりは相当なものだ。
うわさは山ほど聞いている。
新入社員を鍛えるというたてまえにはなっているが、本当にそれだけかどうか。
一種のサディズムなんだな、あれは。
やりかたもきたない。
仕事のうえで、わざと落とし穴を作っておいて、そこへ部下が落ちるのを待っている。
落ちたところで舌なめずりをして近寄って行って、どなり散らし、それからイジイジといやみを言う。
へたに反抗すると、もっとひどいわなを仕掛ける。
たまったものじゃない。

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N君がお得意さんをしくじったのは、一応は彼の落ち度かもしれないが、もともとあそこの会社とはうまくいってなかった。
若僧がノコノコ出かけて行って、それでまるく収まる状態じゃなかった。
そのあとの手形の紛失だって、S課長が隠したんじゃあるまいか。
なにもかもN君のせいにされてしまった…。
N君はくやしがってトイレの中で泣いていたそうだ。
それがめめしいと言って、またみんなの前で痛烈に罵倒された。
N君はたまらなくなって屋上から飛び降りた。
かわいそうに。
遺書はなかったけれど、なにか言いたいことがあったんじゃあるまいか。
青白い死顔がフッと目に浮かんだ。

「おや?」
私はブルっと身震いをした。
目がしらに映ったN君の顔が、急に宙に飛んで壁のあたりに白い影を作った。
影は少しずつ輪郭を明らかにして、人の姿になった。
恨むようなまなざしがこっちを見すえている。






「N君!」
たしかにそれは私のよく見知ったN君にちがいない。
しかし、その青ざめた顔、怨嗟のひとみ…私は真実身が凍えるほどの恐怖を覚えた。
「N君!迷わずに…成仏してくれ。ナムアミダ、ナムアミダ」
月並みかもしれないが、こんなときにはやはりこう唱えるほかにない。
N君は黙って見つめている。
白い表情はただ深い恨みだけをたたえている。
なんでそんな目つきで私を見るんだ。
私はなんにもしてやしない。
見当ちがいもはなはだしい…。
私はおびえながらも、そう思った。
そう思ったからこそ、白い影に向かって叫んだ。





「キミ、おかどちがいだ。化けて出るのなら、S課長のところへ出ろ。オレのところじゃない」
絵の具ほどに青い唇が、かすかに震えた。
そして、悲しく歌うような無気味な声で、しかしやはりN君らしい、どこかやさしい声で、言った。
「でも、こわくて。オレ、S課長のところへ出られないんだ」


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