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あなたは一年生。
もうすぐ七歳になる。
家は木造アパートの二階で母さんはいつもいない。
母さんは東町のレジャー・ランドでキップ切りをやっている。
学校が終わると、あなたはアパートの鍵をあけ、だーれもいない部屋へ帰る。
テーブルの上のおやつを食べ、ヤクルトを飲む。
それから文字盤に漫画のいっぱいかいてある置き時計を見る。
針が縦にまっすぐになるまでには、まだまだたくさんの時間、待たなければならない。
あなたはプラモデルや、模型飛行機のセットを出して見る。
工作は大好き。
だけど工作はとてもむつかしくて、いつも上手に作れない。







急に窓の下で子供たちの声が聞こえる。
あなたは大急ぎで部屋を飛び出す。
ヤッちゃんとミサちゃんは仲よし。
マコちゃんは意地悪だ。
でも五時を過ぎると、みんな家へ帰ってしまう。
あなたはもう一度ひっそりとしたアパートの部屋へ戻る。
そして、少しだけテレビを見る。






ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン。
時計が六つ音を鳴らすと、あなたは待ちかねたように外に駆け出る。
繁華街を走り抜け蛇屋の角でちょっとだけショウ・ウインドウを眺め、それから次の大通りを曲がって立体交差の踏切りを越せば、もうレジャー・ランドの裏門は近い。
秋の日は西の向こうにストンと落ちて、さっきまで長い尾を引いていたあなたの影法師も、今はもうどこかへ逃げて行ってしまった。
鈍色の空の下でネオン塔の光だけが、次第に確かな輝きに変わっていく。 







「やあ、ヒロちゃん。お迎え?」
顔見知りのおばさんが、あなたの頭を撫でながら柵をあけてくれる。
レジャー・ランドの閉門は午後五時半。
だからもうお客さんの姿はどこにもない。
木馬も電車もロケットも、みんなシートをかぶり声を殺してうずくまっている。
菊の香り。
夜のとばり。
風の静けさ。
あなたは、いつか童話で聞いた動物たちの墓場のことを思い出す。
菊の花は死人の匂いだ。
夜の暗さは死人の国だ。
そして音のない風は死人の声…。
冷たさが心の中を走り抜ける。
母さんはどこにいるのだろう?





   



「ヒロちゃん」
闇の中から突然声が聞こえて、作業服のまま母さんが近づいて来る。
母さんはポケットからガムを突き出す。
あなたは黙って受け取る。
うれしい。
でも、それを顔に出すのが恥ずかしい。
ガムは甘くてハッカの味が喉にしみる。
「明日から菊人形が始まるのよ」
「菊人形って、なに?」
「菊で作ったお人形よ。今、おじさんたちが作っているわ。見る?」
「うん」
母さんは、あなたの手を引いて歩きだす。
急に西風が強く吹いて来て、あたりに散った紙屑をクルクルと廻す。
ポップコーンの袋、ウルトラマンのマスク、焼きそばの紙皿。
みんな小さな竜巻きに乗って空に舞いあがる。
広告塔がガタガタと恐ろしい音をたてる。
「あそこよ」
母さんが指差す先にベニヤ張りの大きなバラックがある。
あれはいつもお化け屋敷をやっているところ…。
あなたは、そこで見た不気味な場面を思い出す。
古井戸にさがる首、音もなく開く棺の蓋、老婆の青い手…。
お化けは本当にいるのだろうか。









「今晩は。ちょっと見せてくださいな」
母さんが入口で声を掛ける。
中に入ると、菊の香りがムッと鼻を刺す。
天井は暗く、長く垂れた電球が、大きな菊の山をボンヤリと照らしている。
おじさんたちが、木の棒を立て、針金を巻き、その上にせっせと菊の着物を着せていく。
できあがった人形は、闇の中にスックと浮かびあがる白い影。
おぼろな生命。
あなたはブルっと身震いをする。
「ほら、ヒロちゃん。乙姫さまと浦島太郎よ。きれいでしょう?」
「うん」
あなたは仕方なしにうなずく。
母さんはこんなものが本当に好きなのだろうか。
乙姫さまも浦島も、紙のようにしらじらと立っているだけなのに…。





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おじさんたちが声もたてずにあちこちと、いそがしそうに動き廻っている。
「ヒロちゃん、待っててね。着替えをして来るから。道順に沿って行ってごらんなさいよ」
母さんは、あなた一人を残して出口のほうへ立ち去る。
あなたは少し怖いけれど、勇気を出して道順を奥へ、奥へと小走りに進む。


おじさんがたった一人、通路に背を向け菊の中で人形のカラクリを作っている。
あなたは、その場に突っ立って、おじさんの手さばきを見つめる。
おじさんの手からパチン、パチンと針金が切れて飛ぶ。
「坊や。針金の切り方を知っているかい?」
おじさんに急に声を掛けられて、あなたはびっくりする。
「知らない」
「そうか。針金はな、ペンチの奥のところに挟んで、ハサミみたいにパチンと切ればいいんだ」
本当だ。
ペンチで針金を切るなんて…あなたは今までに聞いたことがない。
「工作は得意かい?」
「プラモデルなら作るよ」
「そうか。プラモデルはセメダインでくっつけるんだろう?」
「そう」
「セメダインを使うときはな、あわててドンドンくっつけちゃ駄目だぞ。一つ貼りつけたら、それが乾くまでよく待って、それから次の仕事にかからなくちゃ」
「うん」
プラモデルの糊づけは本当にむつかしい。
指先がセメダインだらけになって、いつも失敗してしまう。




マコちゃんは、とてもすごい船を作ったけれど、あれはきっとお父さんに手伝ってもらったんだ。
「工作がうまくなりたいなら、一つ、一つ、丁寧にやらなきゃいかないぞ。ほら、おじさんだって、鋸を使うときは、ちゃんと線を引いて、その線にあわせて、切るんだから」
おじさんは、材木の四面に鉛筆で線を引き、鋸でまっすぐに切り落とす。








あなたは思う。
家には鋸もペンチもない。
大工道具がほしいな。
いつかデパートで子ども用の大工道具セットを見たことがある。
でも、母さんは危ないからと言って、きっと買ってくれないだろう。
「細い木に釘を打つときには、面倒でも錐で穴をあけておいて、それから打たないと、木が割れちゃうぞ」
おじさんはうしろ姿のままいろんなことを教えてくれる。
あなたはもう菊人形なんか少しも怖がっていない。
菊人形だって、お化けだって、みんなおじさんがこうやって作って、動かしているんだ。
怖いものなんかいるものか。
「ヒロちゃん、ヒロちゃん」
入口のほうから母さんの声が聞こえる。
声が近づいて来る。
「ここだよ。母さん」
こう呼んで、あなたは薄明かりの通路をのぞき込む。
おじさんが菊の中から初めて顔をはっきりと見せ、次にあなたが眼を凝らしたときには青い顔はボーッと少しずつ消えて、もうあとにはだれもいなくなった。
「なにしてたの?こんなさびしいところで」
「………」
あなたは声を出すことができない。
「さ、遅いから帰りましょうね」










母さんはもう仕事着を脱いで、手にニ、三本菊の花を持っている。
建物の外に出ると風が広場を吹き抜け、夜の暗さを増している。
レジャー・ランドの夜はどうしていつもこんなにさびしいのだろう。
あなたは、たった今、出て来たバラックのほうへ首を向ける。
「ねえ、母さん、あそこはいつもお化け屋敷をやるとこだよね」
「そうよ。夏休みに見たじゃない」
「うん」
あなたは声をひそめて母さんに聞く。
「母さん、お化けっていると思う?」
「いやしないわよ、そんなもの」
でも母さんはなんにも知らないんだ。
だってあの顔は……たった今見たおじさんの顔は、父さんだったじゃないか。
父さんは、いつか最後に見たときも、やっぱり今晩みたいに菊の中で少し笑っていた。
菊の匂いは、あなたに遠い日の記憶を呼び戻す。
父さんの青白い顔…。
あなたには父さんがない。





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