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「あなたの年齢で急にアクアラング潜水を始めるのは、少し無茶かもしれませんねえ」

ボートの上であらい息を吐く私に、指導員の男がなぐさめるように言った。

私は五十五歳。

たしかに今さら潜って海底散歩を楽しむ年ではないだろう。

指導員は内心 "馬鹿なやつだ。いい年をして" と思っているにちがいない。

だが、私には私なりの理由があってのことなのだ。



「ええ。それはよくわかっているんですけどね。ただ、どうしてもやってみたいものですから」

私はいいわけでもするように気弱につぶやいた。

ドボーン。

大きな水音が響いて黒い装備のダイバーが海の中へ落ちて行く。

このあたりは水深十四、五メートル。

箱めがねでのぞくと、ダイバーたちのもどかしそうな歩みがよく見えた。

「年取ったダイバーは、このクラブにいないんですか」

私は船の上のストーブで体を温めながら尋ねた。

「そりゃ、いないこともないですけど、みなさん若い頃から基礎訓練をやっている人たちですからね」

アクアラングの重量は十五キロもある。

ウェット・スーツを着て、潜水マスクをかぶり、足ひれをつけ、そのうえにこの十五キロのアクアラングを背負うと、地上では相当の重労働だ。

しかし水の中に入ってしまえば、浮力の影響を受けてほとんど重さを感じない。

しかも私は子どもの頃から水泳ぎは得意だった。

今でも四、五百メートルなら楽に泳げるだろう。

だからアクアラング潜水くらいと、たかをくくっていたのだが、実際に訓練を受けてみるとこれがなかなか思ったようにいかない。

高圧の酸素を吸うので呼吸の調節がうまくいかず、四、五分間も潜っていると、もう息が苦しく心臓がドキドキと今にも破裂しそうに動悸を打つ。


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「あなたも若い頃からお始めになればよかったのに。二十年くらい前にも一度ブームがあったんじゃないですか」

指導員の口ぶりは、まるで昔アクアラング潜水がはやったときに私がちゃんと遊んでおかなかったのをとがめているようにも聞こえた。

今さらそんなこと言われたって仕方がないじゃないか。





そう。

私は小さいときから海が好きだった。

水中めがねで見る海の底は神秘にあふれていて、いくらながめても見あきることがなかった。

だから以前にもアクアラング潜水をやってみたいと思わなかったわけではない。

「そうですね。二十四、五年前になりますかね。ゴルフやアクアラング潜水がやたらはやった時期がありましたよ。ただ、あの頃の私はレジャーどころじゃなくってね。なんとかマイホームを建てようと夢中になっていたものだから」

私は苦く笑って言った。

親父は一生借家住まいだった。

家一軒建てることもできずに死んでしまった。

子どもたちに何一つ残さずに…。

だから私はサラリーマンになったとき、なんとか自分の働きで自分の家を持とうと思った。



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そのためには、まず土地だ。

なにがなんでも土地がほしかった。

土地さえあればその上に家を建てるのはそれほど困難ではない。

私は残業をし内職をし、必死の思いで節約をした。

株の勉強をして利殖の工夫にも精を出した。

努力のかいがあって貯金は年々増えたけれど、土地の値上がりはそれに負けず劣らず激しかった。

私は歯を食いしばって頑張った。

とてもレジャーどころではない。

どんな遊びがブームになろうと私には関係がなかった。








百坪の夢が七十坪に縮んだ。

せめて五十坪の土地がほしいと思った。

そして、ようよう美しい海浜の郊外地に四十坪の土地を持つことができた。

だが…。



「少し雲が出てきましたね」

指導員は空を見上げながら気のない調子で言った。

日がかげると海の表がサッと暗紫色に変わり、急にあたりはさむざむとした風景になる。

「さあ、もう一ぺん潜ってみてくださいな」

「ええ」

私はボンベを背負い、マスクを顔に当てた。

「思いっきり潜れるところまで行ってみてください」

私はコックリとうなずいた。

最初から今日はそのつもりだった。

少し苦しいだろうが今日こそは、あそこまで行ってみよう。

私はボートのへりにすわり背から転げるようにして水の中に飛び込んだ。

急に体が軽くなった。




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五メートル、十メートル、十五メートル。

次第に海の底へ体が沈んで行く。

私は沖へ向かって手足を動かした。

百メートルほど進んだ。

「たしかこのあたりだ。この水の下だ」

私はマスクのガラス越しに海底の起伏を見透かした。

四方に目印の白い花崗岩が埋めてあった。

私は苦しい息の中で思った。

「ここだ。ここなんだ。いくら日本が沈没したって、この四十坪はオレのものなんだ」






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