カテゴリ: ショートショート

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月末の残業を終え、事務室を出たのは夜の十一時に近かった。
まったく人使いのあらい会社だ。
部屋にはだれも残っていない。
ドアの脇のスイッチを押すと、事務室が急に暗黒の倉庫に変わった。
コト、コト、コト…。
私の靴音だけが廊下に響く。
ロッカールームはひっそりと静まりかえって、まるで西洋の死体置き場のようだ。
「死体置き場…」
どうしてそんな言葉を思い出したのだろうか。
やはりN君のことが頭のどこかにのこっているのかな。








N君は高校を終え、私といっしょにこの会社に入った。
ひとめ見たときから気弱な印象の男だった。
女にしたらさぞかし美人になりそうな、そんなやさしい面差しで、性格も顔立ちに負けず劣らずおとなしい。
おとなしすぎるくらいに…。
言っちゃあわるいが、そばにいると、ついついいじめたくなってしまう。


そのN君が社内でも一番底意地のわるいS課長のところに配属されたんだから運がない。
N君もずいぶんとつらい思いをしただろう。
実際の話、S課長の新人いびりは相当なものだ。
うわさは山ほど聞いている。
新入社員を鍛えるというたてまえにはなっているが、本当にそれだけかどうか。
一種のサディズムなんだな、あれは。
やりかたもきたない。
仕事のうえで、わざと落とし穴を作っておいて、そこへ部下が落ちるのを待っている。
落ちたところで舌なめずりをして近寄って行って、どなり散らし、それからイジイジといやみを言う。
へたに反抗すると、もっとひどいわなを仕掛ける。
たまったものじゃない。

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その夜、二匹の風邪のビールスが風に揺られて町をさまよっていた。
雲は凍てつき、今にも雪の降り出しそうな寒い夜だった。
「寒いな。だれか人間の体の中にもぐりこもうぜ」
「うん。このままじゃ凍え死んでしまうぜ」
そうつぶやきあっているとき、二人のサラリーマンが町角にに現れた。
「あれにしよう」
「あんまりいい男じゃないな」
「より好みしているときじゃないぜ」
「まあ、そうだ。二人ともいいあんばいに疲れているらしい」
二匹は風に揺られて男たちの口元に近づき、二人が息を吸った瞬間に、スイと鼻から肺へともぐり込んだ。





男たちの名はマジメ氏とナマケ氏。
同じ会社に勤めるサラリーマンだった。
マジメ氏はその名前の通り生真面目な男で、この日も夜遅くまで残業をし社宅へ帰る途中ちょっと駅前の居酒屋に立ち寄った。
体は綿のように疲れていた。
一方、ナマケ氏は退社時刻を待ちかねるようにして会社を出て、そのまま麻雀屋へ足を向けた。
それがナマケ氏の日課だった。
昨夜も一昨夜も十二時過ぎまで雀卓を囲んだ。
「たまには少し早めにきりあげようぜ」
「ああ、そうしよう」
十時過ぎに麻雀屋を出て、駅前の居酒屋に立ち寄った。
そこでマジメ氏に出会った。
「ぽつぽつ帰ろうか」
「ああ、オレも少し疲れた」
「麻雀も結構疲れるものらしいな」
「うん。仕事より疲れるぜ」
店を出て大通りの角にさしかかったとき、折あしく二匹のビールスとめぐりあったのだった。



























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「先生、関係者がみんなそろいました」
十二畳はあろうかという広い応接間に、猫神家の一族が全員集まって席に着いていた。
天井から黄ばんだシャンデリアが垂れ、室内に影の多い光を投げかけている。
ある者は神妙に眼を閉じ、ある者はふてぶてしく腕を組んで鼻孔をふくらませていた。
「うむ」
中央の席にどっかと腰をおろしているのが、あの名高い銀田一探偵。
しかし、寄る年波には勝てず、髪は白く、入れ歯はゆるく、おまけに去年の軽い脳卒中のため、葉巻を持つ指先もワナワナと震えていた。






「先生、ご隠居様を殺した犯人はだれでしょうか?早くその名を教えてください」
猫神家の主人、猫神狂一郎は一ヶ月前、自宅の居室で非業な最期をとげた。
毒薬は昔なつかしい石見銀山の猫いらず。
就寝前に飲む煎じ薬の中にだれかが投入したらしい。
それが、だれか?
警察は必死の捜査を続けたが、日を重ねるにつれ迷宮入りの気配が色濃く漂うばかりであった。
そこへ登場したのが銀田一探偵。
推理小説の大団円さながらに、本日この席で犯人がだれか、その絵解きがおこなわれる手はずになっていた。










「さよう」
探偵はジロリと周囲に目を配り、おもむろにつぶやいた。
そのポーズはいかにも堂に入っていたが、その実、探偵の頭の中にはなに一つとして目算が立っていなかった。
犯人がだれなのか、動機はなにか、犯行の経過はどうか、なにもわかっていなかった。
本来ならば、まだ関係者を一堂に集める段階ではないのだが、警察署長に、
「先生、もうボツボツいかがでしょうか。現代はスピードの時代です。遅いのはきらわれます。角川書店も待っておりますし」
と、そそのかされ、ついウッカリこの席に来てしまった。





「えー、これは明らかな殺人である。だからして犯人は必ずいる。しかし、犯人は人間とは限らない。猫かもしれない。その時は犯人ではなく犯猫である。あるいは犬かもしれない。その場合は犯犬である。犯犬と言えば、この作品の版権はどうなるのじゃ」と、わけのわからないことを話し始めた。
初めのうちは一座も緊張して聞いていたが、次第にしらけムードに変わった。
「先生、先生は本当に犯人の名がわかっておいでなんですか」
「知っちょる、知っちょる」
「じゃあ、早く言ってください」
「あせるな。あわてる乞食はもらいが少ない。アッハハハ」
銀田一探偵が脳軟化を起こしているのは、言動から察して明白だ。
こんな人に犯人を名ざすことができるのだろうか。
しかり。
銀田一にはもうどんなすいりをする力も残っていなかった。
彼はただ時間かせぎの長広舌をふるうだけであった。
あわれ、あわれ、銀田一のあのすばらしい才智も、生涯の最後において汚点を残すのだろうか。
犯人は逃げのびるのだろうか。





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「麻雀が本当にうまくなると、牌をフランネルの上に滑らしただけで、その牌がなにかわかるんだぜ」
私がまだ麻雀を習いたての頃、その道の先輩から、こんな夢みたいな話を聞かされたのを覚えています。
「本当かい?すごいもんだなぁ」
その頃の私は、ろくに盲牌もできないありさまでしたから、半信半疑で先輩の話をありがたく拝聴していました。
彼は得意そうに鼻をうごめかし、
「本当さ。牌にはいろんな文様が掘り込んであるからね。白板のようになにも彫ってない牌なら、フランネルの上をほとんどなんの抵抗もなく滑って来る。九索は縦にはよく滑るけど、横に引くと抵抗がきついんだ。九筒は縦にも横にも、どこかまるーくひっかかるところがある。それやこれやで本当の名人は牌を軽く滑らせただけで、その牌が何か、みんな読めちゃうんだ。キミも早くそうならなきゃ…」
たしかに理屈としては、そんなことも可能かもしれません。
しかし人間の指先は、そんなわずかな差異を感じわけるほど鋭敏なものでしょうか?
私は根が信じやすいタチですから、この話を聞いて何度か実験してみたのですが、一番やさしそうな白板でさえ、とても私には感じ分けることができません。
そのうち私の麻雀もいくらか上達し、事情がよくわかるようになると、
「あんなこと、できっこない。さては、あいつにかつがれたのか」
と真相を知って苦笑し、いつの間にかこの話自体すっかり忘れてしまいました。
もし思い出すことがあったとしても、それは一つのジョークとして、例えば剣豪の刀の鍔がカチンと鳴っただけで目の前にいる人の首が落ちていた、といった話と同じように、いかにもありそうなバカ話として、だれかに語ったことが一度や二度あったかもしれません。












ところが一昨夜のこと…。
私は都内の旅館で親しい仲間二人と、それからメンツが足りないので宿の主人に加わってもらい、夜の九時過ぎからジャラジャラと卓を囲み始めました。
雨がシトシトと降りこめ、妙にものさびしい夜でしたね。
最初の半荘がもう終わろうという頃だったと思います。
私は七対子の闇聴で白板を待っていました。
言い忘れましたが、この仲間とやる麻雀はいつもマナーが厳格で、特に先自摸は絶対に許されません。
上家が手間取っていても、せいぜい牌を河の上で滑らして自分の近くに引いておくだけの約束です。
その時も上家が考え込んでいたので、私は、
「遅いぞ。新聞!新聞!」
などと言いながら、指先で牌を滑らせ手元に引き寄せたのですが、その瞬間、"あ、ひっかかる" こう感じたのです。
牌がどこかねばっこく、卓に張ったフランネルにまとわりつくような感触でした。
手番が来て開いてみるとそれが白板で、私は自摸和りを喜びながらも、心の中で、
「へえー、白板がねばるのか。おかしいな」
と思って、急に昔聞いたあの話を思い出したのです。












これがたった一回の体験ならば、すぐに忘れてしまうのですが、その夜はどうしたわけか白板を待つケースが多く、そのたびに指先に神経を集中していると、白板のときにはかならず微妙な感触があって、それとわかるのです。
私は心中ひそかに興奮しました。
「あの話は本当だったんだ。オレにも白板がわかるようになったらしい。これからは滑らしただけでいろんな牌がわかるようになるかもしれないぞ」
こう思うと同時に、もう一方では、
「世間には、どんな名手がいるかわかりゃしない。滑らしただけで牌がわかるやつと勝負をして、オレが勝てるわけないな」
あらためて畏怖の気持ちを抱いたりもしました。
結局この夜の勝負は、白板がよく読めたせいかどうか、私のひとり浮きになったのですが、ゲームの終わったあとで、私は牌をつまみながら、ふと漏らしました。
「この白板、滑らせただけでわかるね。糊でもついているみたいな感じがして…」
すると旅館の主人が思い出したようにカレンダーを見上げて、
「今日は五月二十六日でしたね?」
「ええ…」
私が怪訝な顔で聞き返すと、心なしか、主人の顔が青ざめています。
「それが…どうかしましたか?」
「何度も何度も洗ったはずなんですけど、変ですねえ」
「……?」
「いやな話ですけど、去年の今日、この部屋で麻雀をやっていて、死んだ人がいるんです。血をドップリと吐いて…」
「本当ですか?」
主人がゆっくりとうなずきながら、
「白板が四枚血でベトベトにぬれちゃって…」
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深夜の国道を灰色のセダンがつっ走る。
道の両側はどこまでも黒い田んぼが続き、時折、稲の干場を作るポプラ並木が遠く近くに見える。
そのポプラ並木がうしろへ飛んで行くとまた一面に黒い田んぼが続いた。
自動車の中には若い男と女が二人。
カーラジオがさわがしい音楽を鳴らしている。
フロントガラスの片隅に赤いネオンの輝きが映り、それが次第に大きくなった。
「あのネオン、読めるかい」
敏彦が助手席のマユミに声を掛けた。
マユミがシートから体を起こして眼を補足した。









「それいゆ…ホテル…だわ」
モーテルだな。今夜はあそこに泊まろうか」もう夕方から二百キロも走り続けている。つぎの町まではもう少し距離があるだろう。「いいわよ」マユミがセーラムを一本口にくわえて火をつけた。「"それいゆ"ってなんだい?」「フランス語で太陽のことだわ。それから、ひまわりの花もそうよ」「田舎のわりには、しゃれた名前だな」車がモーテルに近づくにつれ"それいゆホテル"の命名の由来は明らかになった。青い屋根に白い壁、モダンな造りの館のまわりには一面にひまわりの花が背の高い茎を伸ばし、その先端に重い、大きな花を揺らしている。「いかすホテルじゃないか」「まあね。こんなところでモーテルなんかやって商売になるのかしら」「うん。次の町まで一時間はあるからな。オレたちのように泊まる人もあるだろうさ。それに、ちょっとロマンチックな造りで、わるくないよ、ここは。ちょっと休んでみたくなる」「よほどひまわりの好きな人なのね」「そうらしい」
















二人はガレージに車を入れ、鍵を受け取って部屋に入った。「あーあ、つかれちゃった」部屋に入るとマユミがベッドの上に身を投げた。ミニスカートが上に引かれて形のいい足が長く伸びる。「風呂、どうする?」「そうね。やっぱり入ろうかしら」「そうしろよ。あとから行くわ」二人が風呂からあがった時には、部屋はすっかり冷えていた。湯上がりのはだに乾いた空気が心地よい。敏彦がらあとから上がってきたマユミの体を抱きかかえてベッドへ運んだ。マユミは足をバタバタと動かしたが、ベッドに置かれて、敏彦の体が上からかぶさってくると自分も敏彦の背に手をまわして爪を立てた。「電気を消して」「ああ」スイッチを切ると窓をぬってかすかな月の光が部屋に忍び込んでくる。俊彦の手が乳房をまさぐり、それから少しずつ下に伸びた。マユミの体毛はしなやかで指先にやわらかくまとわりつく。二人の影が重なった。








それから十分後二人はベッドに寝転がってタバコの煙を天井に吹き上げていた。「ここ、なんていうところ?」「さっききがついたんだが、このあたりは昔、刑場があったところだね」「刑場?」「そうだよ、東京の近くなら鈴ヶ森みたいなところさ」「じゃあ、昔この辺で罪人が首を斬られたわけ」「まあ、そうだ」「ウソよ。驚かさないでよ」「いや、ウソじゃない。バッグの中に旅行案内がある。そこに書いてあるよ」「ヤーねえ」そう言いながらマユミがブルっと身震いした。「どうした?寒いのかい」「ううん。そうじゃないの、あなたがそんなこと言うからよ。さっきから、だれか人に見られているようや気がしてしょうがないのよ」マユミがそう言いながら窓のほうを見た。窓にはひまわりの影が映っている。「まさか」俊彦が鍵をまわして窓をあけた。窓の外には何十本ものひまわりの花が並んでいた。そして、その花が、窓をあける音に驚いたように、急にいっせいに垂れていた首をあげた。茎の先には、何十という人の首が目を開いて……。


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もの悲しい日本海の水をまっ赤に染めて太陽が海に落ちた。
にぎにぎしい八月が去って、波の音にも空の色にも夏の別れを告げる気配があった。
オレたちは足元に海を見おろす崖っぷちに寝転がっていた。
あたりは一面の松林だ。
女は花がらのビキニ姿でエアマットの上に寝そべり、次第にかげりを増していく空を見上げていた。 
「ねえ、さっきからシュー、シューって、空気の漏れる音がするの。
マットに穴があいたのかしら?」
エアマットに耳を寄せると、たしかにかすかな音が聞こえる。
「どこかな?」
オレたちはマットをひっくり返して穴を探したが、どこにも穴はない。
「まああいさ。どうせこの夏かぎりで捨てるつもりだったんだ」
「惜しくないの?」
「もうさんざん使ったからな」
「そうなの」
「女は気だるそうに言って、それから急にオレの首に腕を巻きつけてきた。
オレは軽く唇を重ねた。
「ずいぶん熱がないのね」
女が恨みがましく言う。
「そうでもないさ」
「そうよ。わかるわ」
オレは実のところ、その女が少しいやになっていた。
この夏知り合って、行くとこまで行った女。
七つも年上だった。








「あなた、あたしを捨てるつもりなのね」
「捨てる?どうしてそんなこと言うんだ」
オレは内心ギクリとして女を見た。
「いいのよ。そう思っていたわ。七つも年上なんですもん。すぐにおばあさんになるわ」
そこまでわかっていれば世話はない。
オレは黙ってマットに寝そべった。
シュー、シューと気掛かりな音が聞こえる。
なんの音だろう?
「いいのよ、それは。でもお願い。今日だけは…。もう一度しっかり抱いてほしいわ」
女は遠い海の果てを見るようにしてつぶやく。
「しめっぽいこと言うなよ」
「耳障りな音ねえ、シュー、シューって」
女はビキニの背に腕をまわし、水着のホックをはずしてマットの上に身をふせた。
ジッと目を閉じて待っている。
オレは仕方なく女の体に身を寄せて唇を強く吸い、それから手を静かに女の胸に移した。
乳房には張りつめた弾力がなかった。

手を入れてまさぐると、指の中で不思議な生き物のようにグニャグニャとくずれる。
胸の下には、浅黒いしわが何本もこまかく波立っていた。
シュー、シューと相変わらず音が聞こえる。
どこかが破れているれしい。
白かった女の太腿に小じわが寄り、薬で薄く焦がしたような黒さがあった。
前からこんなだったろうか?
オレは目を閉じてひそやかな部分に口づけをした。
ビロードの感触はなく、ザラッとしたものが舌先に伝わってくる。
「あ、あ」
女が激しく体を震わせる。
まるでその身動きに呼応するかのようにシュー、シュー、と空気の漏れる音が大きくなった。
「やけに空気が漏れるなあ」
身を起こしたオレは慄然として目を見張った。
女の頬の肉はゲッソリと落ちて目はふかぶかと凹んでいる。
「どうしたんだ?どこか悪いんじゃないのか」
「いいの。目をつぶってて。今わかったわ」
「なにが…?」
女は力なく笑った。
「さ、お願い。もう一度抱いてよ」
女は病人のように力の萎えた体を預けてきた。
張りのない醜さが女の顔にも体にもはっきりとうかがえた。
力なく開かれた脚は、ひどくいびつなものに見えた。
舌先にゆるんだ肌がまとわりつく…。
もう一度目を開いたとき、女は小さいしわだらけの老婆になっていた。
「ね、わかったでしょ。あたしの空気ぐ抜けているのよ」
女はヨロヨロと身を起こすと崖のふちに立った。
紙のように薄く、頼りない。
いつしか海には風が起こっていた。
いくぶん肌に冷たい西風がヒラヒラと女を吹き上げ、吹き落とした。
しぼんだ女は右に舞い左に揺れ、やがて滑るように灰色の海に落ちて、いく度か波に洗われながら沈んでいった。
雲のない夕べの空に黒い鳥が飛びかう。
その海鳥たちが運ぶ荒い潮騒の中で小さな恋が消えていった。

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「こんにちは」
独身寮のドアを押しあけて声をかけるとおばさんは日だまりにすわったまま振り向いた。
「あら、いらっしゃい。ドアを締めてくださいな。猫が逃げるといけないから」
膝の前に大きなシャム猫がいて、ミルクの皿から顔をあげ、胡散くさそうに私を見た。
「このごろ、おばさん、猫に入れあげているんだって?」
「そうよ。ま、おあがりなさいな」
おばさんは照れくさそうに笑って乱れた髪をかきあげた。
髪の中に白いものがめっきり目立つようになった。
五年ほど前、おばさんのご主人と息子さんがあいついで交通事故でなくなり、おばさんはこの世にたった一人残されてしまった。
一時はまるで魂を失ったように家に閉じこもり、来る日も来る日もなすところなく呆然と時を過ごしていたらしい。
たまたま私の会社の独身寮で管理人を募集していたので、おばさんを推薦したところ、うまいぐあいに採用となった。
それ以来、おばさんは独身寮の一番日当たりのいい一室をすみかにして、少し早めの老後をひっそりと暮らしていた。
私が部屋にあがると、シャム猫は一つ大きなあくびをしてから、パッとおばさんの肩に跳びのり、そこを踏み台にして洋服ダンスの上によじ登った。
タンスの上には朱色の座布団があって、そこが猫の寝床らしい。
私が手を伸ばすと、猫は軽快な色を浮かべながら後ずさりをした。
色つやの美しい、優美な姿だが、お面相のほうは陰気くさくて、私の好みではない。
「なんだか景気悪そうな顔をしているね」
「そんなの。目がおかしいのよ」
そう言われてよく見ると、両眼とも白い膜が大きな目の三分の一ほどをおおい隠し、それが猫の顔立ちをひどく貧相にしている。





「どうしたのかな」

「明日にでもお医者さんへ行ってみようと思うの」
おばさんはミルク皿を台所の洗い場に置くと、今度は小エビのカン詰めをあけてガラス皿に入れ、タンスの上の猫に差し出した。
この家ではたぶん猫が主人なのだろう。
座布団にすわったシャム猫は召使いが差し出すご馳走にちょっと鼻をふれ、あまり気乗りのしない様子で食べ始めた。
「いやな目つきだな」
「そう言わないでよ」
猫は食事をしながらも、急に自分の館に現れた訪問者に細い視線を送り、半白の眼で品定めをしている。
「チー公、どうしたの?そんな目つきになってしまって…見にくそうだねえ」
おばさんは無愛想な猫を見上げて、しきりに話しかける。
今となっては猫をかわいがることだけが、おばさんの生きがいなのだろう。
リビング・キッチンの片すみには砂を入れたミカン箱が置いてあって、あれがチー公のトイレットにちがいない。
食卓の足は無惨にささくれ立っていて、そこがチー公の爪とぎ場にちがいない。
そして帽子掛けにかかった首輪と皮ひもは…?
「これ、なんに使うの?」
「首につけて散歩に連れて行くのよ」
「まるで犬みたいだなあ」
「外に出したら、どこへ行ってしまうかわからないわ。盗まれたら困るし…。だから毎日朝晩1時間ぐらいずつ連れて行くのよ」

「雨の日も?」
「そうよ。運動不足になったらかわいそうだもの」
おばさんが心配そうに見上げると、チー公は、またも半白の薄目をあけて、私たちを見おろした。





それから一週間たった。
私はおばさんの独身寮の近くまで行く用があって、その帰り道またおばさんの部屋に立ち寄った。
ドアをあけると、おばさんは先日と同じように日だまりにすわって、口移しで猫に食事を与えていた。
「どうだった、猫の病気は?」
「神経症なんですって。一種の孤独病ね」
「猫のくせに、なまいきな…」
「遊び友だちもなく、一日中こんな壁の中に押し込められていれば、猫だってやっぱり神経がおかしくなってしまうものね。それが原因で眼に白い膜が張るの」
「そうかな」
「でも、ぜんぜん心配ないの。よくあることなんですって…」
おばさんは気軽くこう言って私のほうに振り向いた。
「だから、あたしちっとも気にしてないのよ」
そう言うおばさんの眼も半白に膜を張っていて…。












少女は父に連れられて行った動物園で初めて犀を見た。
犀の眼はやさしかったが、その太い角が少女には、ひどくまがまがしいものに映った。
あの角で襲われたらどんなに恐ろしいだろう。
少女は努めてやさしい犀の眼ばかりを見るようにしたが、それでも犀の角の無気味な印象をぬぐいきれなかった。
その夜、少女は犀の夢を見た。
夢の中でも犀はやさしい眼をしていたけれど、角は現実に見たものよりも一層おぞましく思えた。
少女はその次の夜も、そのまた次の夜も犀の夢を見た。
夢の中の犀は、きっとだれかを刺し殺したのだろう。
角はまっ赤に血濡れていた。
少女は目がさめてからも、その鮮烈な色彩を忘れることができなかった。
いつしか犀は夢の中で少女を襲うようになった。
逃げても逃げても犀は追ってくる。少女は犀に組み敷かれ、太く血に染まった角で下腹を突き刺された。
少女は苦痛に頬を震わせながら犀を見上げた。
犀の眼はどこまでもやさしく、慈愛に溢れていた。
少女は突き抜ける痛みをこらえて犀にほほえみかけた。
犀もうれしそうに視線を細くした。


翌朝目をさましても下腹の痛みは根強く残っていた。

少女がそっと脱いでみると下着にほのかな朱色が滲んでいた。
犀はそれからもしばしば夢に現れ、角を振りかざして少女の上にのしかかった。
恐怖と苦痛とがすっかり消え去ったわけではないけれど、少女は犀の荒々しい営みの中にかすかな歓びを感ずることもあった。
ある朝、食卓で少女は母に犀の話を語った。
母は唐突に箸を落としたが、それ以上は何も言わなかった。
なぜか、空気の凍てつくような恐ろしい沈黙のひとときが流れた。
その夜、待っていた犀は来なかった。
次の夜も、その次の夜も犀は現れなかった。
もう犀は少女を忘れてしまったのだろうか。
二度と姿を見せそうになかった。


それから何ヶ月かたって、少女が犀のことなどスッカリ忘れてしまった頃、少女の母が家をあけた。

その夜、少女が眠りにつくと間もなく忽然と犀が現れた。
少女はうれしかった。
犀はまっ赤な、太い角をむき出しにして、荒々しく少女に突き立てた。
体を貫いて激しい恍惚が走り抜け、少女は思わず声をあげた。
歓びの体液が少女の傷跡に溢れ、犀の角を濡らした。
すべてが終わったとき、角を抜いた犀がやさしい眼つきで笑った。
少女が笑い返すと犀の顔が急にゆらゆらと揺れ、父の笑顔になった。
少女はもう犀の話を母に語らない。
犀は今でも時おり少女の夢の中に現れているだろう。































私は堅いベッドの中で眼を醒ました。
眼を醒ましたと言うのは、あまり適切な表現ではないのかもしれない。
四六時中意識がおぼろだった。
どこからどこまでが眠りなのか、自分でもよくわからない。
夜もなければ昼もない。
激しい苦痛があるだけだった。
その苦痛がいくらか薄らいだとき、トロトロと眠りのようなものがあった。
だが、それもそう長い時間ではない。
すぐに骨を裂く激痛が襲ってくる。
そんなあいまをぬって、ほんのいっときだけ意識が、脳の働きが、いくらか鮮明になるときがある。
それが、目醒めと言えば目醒めだった。
鼻にも喉にもゴム管が通っている。
そのわずらわしさを感ずる気力も、もう大分前からなくなっている。
肺から始まった病魔は声帯を冒し、今は一声も出せない。
筆談をするにも手の力が萎えて、うとましい。
全身がベッドの中にめり込み、こうして痛みがいくらか薄らいでいるときでさえ、自分の体が自分のものとは思えなかった。

もう死ぬより仕方がない

何週間も前にそう考えた。
初めのころには、死が恐ろしかった。
自分が数十年生きて馴染んできたこの世界から、ある日突然自分がいなくなるという現実が、どうしても実感として理解できない。

簡単に死んでたまるか

そうも思った。
まだまだ五十代。
そうやすやすと死神に持っていかれたらたまらない。
家族のこと、会社のこと、気掛かりなことが山ほどあった。
しかし全身の苦痛が日増しに激しくなるにつれ、そんな事情がいっさいがっさいどうでもよくなってしまう。
二人の子供は大学生だし、妻には家もあるし、保険もおりるだろう。
会社は…私一人がいなくなったところで仕事に支障が生ずるはずもない。
病床で考えられるのは、せいぜいここまで。
それから先はただ灰色の空白があるだけだった。
生きたまま刻々と肉体が蝕まれていく過程は、私が漠然と想像していたよりもはるかに恐ろしい。
まるで骨と骨の間に万力をこじ入れ、ギリギリと引き裂くようだ。
それが毎日毎日何回となく繰り返して続く。
もうこれ以上の苦しみはないと思った、その次の瞬間に、もっと激しい苦痛が襲ってくる。
鎮痛剤も今ではほとんど効き目がない。
ただ塩を浴びたなめくじみたいに身をよじって苦しむよりほかにない。
なんのために?
なんのためでもない。
ただ死ぬためにこうして苦しむ。
それだけだ。
死に対する恐怖より、苦痛に対する恐怖のほうがはるかに激しい。
いくらか痛みの薄らいでいるときでも、いまにやってくる苦しさを恐れて私はおののいている。
そして、苦痛はかならずやってくる。

助けてくれ

何度言葉の出ない唇で叫んだか。
今となっては、ただ"あれ"を待つよりほかにない。
私は灰色の天井に映った、輪形の影を瞼に宿しながら朋友の佐伯一郎のことを思った。
佐伯の言った言葉が、一つ一つ末期の福音のように耳の奥に甦ってくる。


"あれ"を言い出したのは、佐伯のほうだった。

もう三年以上も昔になる。
ゴルフ場のテラスでビールを飲みながら…。
あのころはあんなに元気だったのに…われながら信じられない。
どうして佐伯が突然あんな奇妙なことを言いだしたのか…ああ、そうか、その少し前に佐伯の身内に不幸があって、それで佐伯はあのことを考えたのだろう。
浅黒い顔に闊達な笑顔を載せて、
「オレたちの年になったら、たまには自分で死ぬってことも考えなくちゃいかんな」
と、佐伯は言った。
そう言いながらもその実、彼自身本気でその問題を考えている様子はなかった。
「そう。いつかは死ぬんだからな」
「死ぬのは仕方ないが、どうせ死ぬのなら飛行機事故かポックリ病。苦しんで死ぬのはいやだ」
「しかし、こればかりは当人の希望どおりにはいかんぜ」
「それは、そうなんだが…」
佐伯はタバコをくゆらしながら言い淀んだが、ふと思い出したように、
「つい最近、叔父貴が死んだだろう。ひどい苦しみようでな。毛虫みたいに身をよじりながら一ヶ月以上も生きていたんだ。どうせ死ぬんなら、なんのために苦しませておくのか、オレにはわからん」
「家族の者としちゃ、それよりほかにないだろうさ」
「気持ちはわかるけど、あれは生き残る側のエゴイズムだな。あの苦しさはただごとじゃないぜ。さんざん苦しんだあとで、結局駄目なのはわかりきっているんだ。オレが病人なら間違いなく早く殺してほしいと思う。そうだろ?」
「まあ、そうだな」
「本当にそう思うか」
佐伯は少し気色ばんで念を押した。
「ああ。オレだって痛いのは嫌いだ」
そう答えた私の気持ちにも嘘はなかった。
佐伯はウンウンと顎を撫でながら頷いて、
「そうなんだ。だから、どうだい、おたがいに元気なうちに約束しておこうじゃないか」
「なにを?」
「安楽死友の会を作るんだ」
「安楽死友の会?」
「うん。今のとこ、会員はあんたとオレだけでいい。どちらかがどうにも助からない病気になったとしよう。苦痛がものすごかったり、植物人間になったりしたら、生きている意味がない。当人にとっても生き続けるのは本意じゃあるまいし、家族の苦労も大変だ」
「ああ」
「そんなときに、片方が冷静に判断して、こっそり病人を安楽死させるんだ」
「なるほど」
「あんたとオレの間なら、約束が守れそうな気がするからな」
佐伯と私とは高校時代からの友人だ。
サッカー部では文字通り同じ釜の飯を食った。
大学を出ると、それぞれ違った会社に勤めたが、親交の深さは変わらなかった。
おたがいにこれ以上に親しい友だちはいなかった。
私は小首を傾げて、
「しかし…うまく殺せるかどうか」
「その点はもちろん考えた」
「どうする?」
「薬はオレが手に入れる。あんたにもあらかじめ分けておこう。どのみちそのときの病人は瀕死の状態だ。本気になって殺してやろうとすれば手段はいくらでもあるさ」
「そうかもしれないが…」
「実行できないのは、病人を取り巻く連中がみんな罪の意識を背負いたくないからさ。言っちゃあわるいが、本当の親切心がないからなんだよ。オレは自分の叔父貴の死にざまを見て、つくづくそう思ったね。病人が苦しむのはな、生き残ったやつが"あれだけ手をつくしたのに駄目だった。仕方ないんだ"って、そう思うためのものさ。死んで行く者のラストサービスだよ、あれは」
「うん、うん」
「しかし、家族にねがっておいても、なかなか殺してはもらえないし…そこで、おたがいに約束しておこうというわけなんだな」
「本気かね」
「ああ、本気だ」
「まかり間違えば殺人罪だぜ」
私がこう言ったとき、それに答えた佐伯の凛々しい眼の色を忘れることができない。
彼は少年のように明るく笑って言った。


「そのとおりだ。しかし、かいのない苦しみを続けている友人のためなら、オレはその危険を負担する覚悟があるぜ」
私は驚いて佐伯の顔を見上げた。
男同士の熱い友情が、五十歳を過ぎた男には照れくさいほど真摯な信頼感が、二人の間にフッと漂って消えた。
いや、私だけがそう信じたのかもしれないが…。
「どうかね」
佐伯は視線を鋭くした。
「よかろう」
「じゃあ約束しよう」
初めはその場限りの、ただの冗談だと思っていたが、佐伯は思いのほか熱心だった。
四、五日たった昼休みに私のオフィスに訪ねて来て、彼はカプセルを置いた。
「なんだ、この薬は?」
「忘れたのか。ゴルフ場で約束したじゃないか。安楽死友の会だ」
「ああ、あれか」
「錠剤一つを飲み水の中に入れればいい。点滴液の中でもいい」
「死体解剖をしたら?」
「それはわかる。しかし、瀕死の病人が死ぬんだ。そのケースはないさ」
「わかった。預かっておこう」
「じゃあ、友の会の設立を祝して今夜一杯飲むとするか」
「よかろう」
あの夜は二人連れだって、梯子酒を楽しんだ。
「友の会バンザーイ」
「友の会のために」
ジョッキをあげて乾杯した風景も、私は今、はっきりと眼の裏に呼び戻すことができる。
とはいえ、私はこの約束をそれほど真剣なものとは考えていなかった。
佐伯がいい加減な気持ちで言ったのではないと、それはよくわかっていたが、なにぶんにもあのころは死が遠かった。
死を差し迫ったものとして考える必要がなかった。
それが…たった三年のうちに事態が急変した。
死は思いがけなく私のすぐ近くにいた。
こうしてベッドの上で苦しんでいると、いやでも"あれ"を思わずにいられない。

あいつは約束を守る奴だ

しかも私は、自分の病状がまさに友の会の発動をうながす状態にあると確信している。

いまに佐伯がやってくる。
それが私の死ぬときだ

そう考えるのは、ある種の恐怖の原因とならないでもなかったが、そんな恐怖も激痛が始まると、たちまちどこかへ吹き飛んでしまう。

早く来てくれ。もうオレは駄目だ。早く…早く…頼む

必死に念じながら、私はただ、病苦の跳梁に身をゆだねるばかりだった。

待てよ。あいつが来ないのは、まだ…オレの病状に脈があるからかな

かすかな明るさが心をよぎったが、すぐに光も消えた。
病魔が日を追って着実に全身を冒しているのは、だれよりも私自身がはっきりと知っている。
家族の者だってそれを知らぬはずがない。
とすれば、その知らせが佐伯のところまで届かぬわけもない。



私はわずかな水を口に含むときにも、そこに佐伯の贈り物のあることを思った。

点滴の装置を見上げながらも、そこに佐伯の善意が潜んでいるのを願った。
廊下に足音が聞こえる…。
ささいな物音にも佐伯が来たのではないかと、おぼろな意識を研ぎ澄ました。
そうしているうちにも苦痛はまた襲ってくる。
痛みはさらに激しくなる。
苦しさのあまり鉛の体が弓のようにしなう。
全身をどうよじってみても、苦しみは少しもやわらいでくれない。

早く来てくれ。
一日二日長く生きたって仕方ない

混濁した脳裏に佐伯の明るい笑顔が浮かんだ。
その表情は明るすぎるようにも見えた。
急に不安が駆け抜ける。
笑顔の背後に深い悪意が潜んでいるような気がしてならない。

どうして、あいつが

半生の思い出が、断片的に心に浮かんだ。

そう言えば、佐伯が金を借りに来たことがあったっけ

奥さんが病気で家がゴタゴタしているときに、佐伯は女に手切れ金を支払わなくてはいけない羽目になった。
どうしても内緒の金を捻出する必要があって、私のところに百万ほどの金を借りに来た。
私は断った。
金がなかったわけではないが、あのときはこっちも家を買おうか買うまいかと考えていた。
佐伯ら高利の金に手をつけ、その後大分苦労したらしい。
会社の役員になれなかったのも、そういう金銭問題と無関係ではなかったようだ。

今でも恨んでいるのだろうか
そんなケチなやつだったのか

考えてみれば、長いつきあいであればあるほど、心の奥底にライバル意識や深い怨嗟が積み重なっている。

もしかしたら…あのときの恨みかな

学生時代に、喫茶店のウエイトレスを奪い合った、、
私はうまく佐伯を出し抜き、軍配は私のほうに上がった。
そのウエイトレスとの仲も、そう長く続かなかったし…佐伯はそんなこと、すっかりわすれてくれたものと考えていたが…。
一つ一つ思い返してみると、親友などという概念がいかに虚妄であったか、そのことばかりが心に甦ってくる。
また激痛がこみ上げてきた。

馬鹿野郎
なにをしている
オレを苦しめるのが、お前のほんしんだったのか
殺人者の危険を冒してまで、助けに来てくれると言ったのは、だれなんだ

私は長い苦痛の時間を通して、ただひたすら友の助けを祈り、その裏切りを呪った。
呪いながらも、また繰り返して友の助けを願った。

業病の苦しさは、それを体験した者でなければわからない。
しかも体験した者がみんな死んでしまうとなると、いったいだれがその本当の苦しさを語ってくれるのだろうが。
病人たちは、ベッドの中でのた打ち廻りながら、こらえ、苦しみ、祈るよりほかにない。
「馬鹿野郎。なにをしている。オレを苦しめるのが、お前の本心なのか。せっかくの約束はどうなったんだ」
その男はベッドの中で繰り返し繰り返し呻いた。
その男…佐伯一郎も同じ病魔に冒され、友の決断を待ちながら、その不誠実さを長く、苦しく、死の一瞬まで呪い続けていた。






















恵子は、まっ黒い、大きな犬と一緒にマンションの一階に暮らしていた。
ペットの飼育が許されているのは幸運だった。
犬の名はブラック。
雄犬である。
仔犬のときから飼っていたわけではない。
知人が外国へ行くため、無理に頼まれて飼うことになった。
犬を飼いたいとは思っていたけれど、飼うなら小さい犬のほうがいいだろう。
ブラックは手足を伸ばすと、恵子の肩の上までらくに届く。
目方も恵子と変わらない。
「でも、大きい犬のほうが性質がいいのよ」
知人がそう言っていたが、嘘ではなかった。
ブラックは温和で、利巧で、聞きわけがよい。
新しい女主人にもよく慣れ、よく仕えた。

わるくないわ

日時がたつにつれ、人間と犬のあいだに友情が深まった。
ブラックは召使いから恋人までの役割を上手に使い分けた。
恵子は二十九歳。
銀座のブティックに勤めている。
容姿もほどほどに美しいから、男たちに誘われることも多い。
まったくの話、高校を出るか出ないかのときからその手の噂はたくさんあった。
ラブレターのたぐいも箱にいっぱいになるほどもらった。
恵子も恋には充分に関心があった。
周囲に群がる男たちの中から、自分の好みにあう男を選んだ。
初めは三人くらい…
それが二人になり、一人に絞られる。
映画を見たり、ドライブに行ったり、すてきなレストランで食事をしたり…。
男は誕生日に花を贈ってくれた。
クリスマスには、
「奮発したんだ」
そう言って美しい紙に包まれた箱をさし出す。
中には金色のペンダントが光っていた。
恋が深まるにつれ、男は恵子の体を求めた。
「さ、行こう」
「ええ」
予測していたことであった。
恵子は頷き、ホテルまですなおについて行った。

幼い頃、恵子は、見てはならないものを見てしまった。
自分が住んでいた家で起きたことなのに、ひどくぼやけた部分がある。
細かい部分までしっかり記憶に残っていてよさそうなものなのに、いつも思い浮かぶのは、黒い背景である。
背景の底に母が臥せている。
白い脂肪の塊みたいなお母さん…。
でも、それが母だとわかったのは、少しあとになってからのことだった。
まっ赤な男がそばで笑っていた。

どうして、あんなに赤い顔だったのかしら

お酒を飲んでいたから…
わからない。
本当は、顔はちっとも赤くなかったのかもしれない。
男の下半身は、むき出しだった。
そして、猛々しいものがまっ赤にそそり立っていた。
魔物みたいに光って、そのもの自体が邪悪な笑いを浮かべていた…。

初めて恋人に抱かれたとき、突然、わけもなく恵子の脳裏に、むかし見たイメージが現れた。
黒い背景に、まっ赤な笑い…。
「いやッ」
力いっぱい男をはねのけた。
あっけにとられている男を背後に、恵子は衣服をかかえて逃げ出した。
「ごめん」
男は追って来て謝ったが、日時がたてば同じ誘いをくり返す。
恵子はまた同じイメージが浮かぶような気がして、恐ろしい。
誘われても誘われても、かたくなに拒んだ。
しばらくはそんなことが続いた。

いつまでも子どもみたいなこと、言っていられないわ

三人目の男に誘われたとき、恵子は意を決して凌辱に耐えた。
いまわしいイメージはやはり浮かんだ。
全身を棒のように堅くして目を閉じていた。
「初めてだったのか」
「ええ」
「すぐに慣れるよ」
だが、けっして慣れることはなかった。
どうしてもなじめない。
我慢をするだけの営みでしかなかった。
好きな男と一緒に映画を見たり、ドライブに行ったり、食事をしたり…そこまではまちがいなく楽しい。
だが、男たちはけっしてそれだけでは満足しない。
求めるものがはっきりして来ると恵子はうとましくなる。
自分が適応できないことが悲しい。
引っ込み思案になりデートそのものまでもが少しずつ楽しさを失っていく。
男たちにとって、こんな女が好ましいはずがない。
恵子の容姿に引かれても、
「なんだか暗いんだよなあ、彼女」
「ちょっと潔癖すぎるんじゃないのか」
と、鋭敏に察知して二の足を踏む。
二度、三度と抱きあっても、恵子がますます嫌悪の態度を濃くするのを見て、男たちは立ち去って行った。 
そのたびに恵子の心は切り裂かれた。
恵子としては、なんとか男の意思にそおうとするのだが、脳裏にいまわしいイメージが浮かび、
「いやッ」
と、われ知らず拒否の感情をあらわにしてしまう。
どうにもならない。
二十代が駆け足で過ぎて行く。
三十歳を目の前にして、

この人なら

という男にめぐりあった。
面ざしはいかついが、心根はやさしい。
この男なら幸福な結婚を約束してくれるだろう。

これが最後のチャンスなのかもしれない

ブティックの店員なんて一生を賭けるほどの仕事ではない。
恵子は人並みの結婚を望んでいた。

今度こそ

決意は固かった。

サイコセラピストは、恵子の話を聞いて、
「めずらしいことじゃないわ」
と言う。
「そうなんでしょうか」
「前にもなおしたことがありますのよ」
頷きながら一本の矢を恵子に渡した。
「これをベッドの脇に置きなさい。いやなイメージが湧いたら、これを突き立てるんです。いいですか。この鋭い矢で、あなたの心の中の魔物を殺してしまうのよ。夢の中でもかまいません。いつでも心に浮かんだら、この矢を突き立てなさい」
「はい」
恵子は半信半疑だったが、今までの成功例をいくつか聞かされて

そんなこともあるのかもしれない

と思った。

恵子は男を家に招いた。
機はすでに熟していた。
アルコールの酔いが、ぎこちない時間を追い立て、さりげなく二人をベッドへ導いてくれた。
「好きだよ」
「私も」
やはりいまわしいイメージは現れた。
黒い背景に赤い顔で…。
恵子は目を閉じたまま、心の中で矢を突き立てた。
ギャッ。
声を聞いたように思った。
「どうした」
男が怪訝な様子で体を起こす。
「いえ」
かぶりを振った。
心が急に軽くなった。
体の緊張が解けていく。
男の動きが激しくなった。
恵子はそっと目をあけた。

あら

男の表情がなにかに似ている。
そう思ったが、すぐには思い出せない。
かすかにいやしいもののように思えて、急いで目を閉じた。

いまわしい魔物は死んだらしい。
心の中にわだかまっていたものが消えたのは、本当だった。
恵子は夢の中でも魔物を殺した。
二度目に男に抱かれたときも、恵子はベッドのかたわらに矢をおくことを忘れなかった。
歓喜が胸に込みあげて来る。
「ねえ、ブラック。もう、私、大丈夫なのよ」
恵子はブラックを呼び寄せ、抱きしめた。
この喜びをだれにうちあけていいかわからない。
ブラックにこそうちあけるべきだろう。
もっとも忠実な友人、恵子の心の秘密をけっしてほかに漏らしたりはしない。
「ねえ、わかる?お前も喜んで」
女主人の喜びようは今までにないものだった。
しっかりと抱きしめた。
ブラックは戸惑った。

これは愛の仕ぐさかもしれない

とブラックは思った…。
恵子は、はっとして体を離す。
「いやッ」
思わず叫んでブラックを押しのけた。
ブラックの下腹に赤いものがそそり立っている。
表情がいやしい。

あの人の、あのときの顔

なにかに似ていると思ったけれど…。
矢を取った。
ブラックに突き立てようとしたが、それはできない。
矢が折れた。
ブラックは異変の真相を知りえない。
女主人の激昂を前にして、ただ恐縮しながら、矢の一端をくわえた。

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