「どんな夢って…それが麻雀の夢なんですがね。私にはとてもいやな夢でした」
N先生は額の脂汗を手の甲で拭いながら照れ隠しでもするように少し笑った。
あまり出世とは縁のない、どこか人柄のよさそうな中年の医師である。
病院の宿直室には今どきめずらしい蚊帳が吊ってあって、その草色の網目が扇風機の風を受けてかすかに揺れていた。
N先生はその中にあぐらをかいている。
枕許には小さなテレビが一つ、もう深夜の放映を終わって、白い画面だけが室内に光を投げていた。
蚊帳の内外は薄暗く、ほとんどお互いの顔も見えない。
新人のN先生は、私を病院の事務員かだれかと勘違いしているらしい。
「ひどくうなされていましたよ」
と私が言うと、N先生は、
「そう…深夜番組を見ているうちに、ついうたた寝をしてしまった」
と、答えた。
時刻はもう午前二時に近いのではあるまいか。
病院はシーンと静まりかえって、音のない黒い夜があたりを支配している。
「廊下を歩いていたら、この部屋からうめき声が聞こえて来たものですから…」
「ありがとう、本当にこわかった」
「どんな夢でしたか?」
「うーん、それが…」
N先生は頭をトントンと握りこぶしで叩いてからボソボソと低い声で話し始めた。
「実は私は前にもこの病院に勤めていたことがあるんですよ。今から二十年くらい前、結核病棟に…」
「はい。知ってます」
「あ、ご存知ですか。まだインターンを終えて二、三年のホヤホヤの医師でしたがね。昭和三十年頃ですから、結核病棟も大入り満員で、病棟では肺切除の手術がとても流行っていた頃です」
「ええ…」
「あの頃、私は独身でしたからネ、病院に泊まり込んでよく麻雀なんかして遊んでいましたが、入院患者の中にも好きな人がいましてね」
「結核病棟の患者はみんなひまをもてあましていましたからね」
「うん。病院の規則じゃ、クランケの麻雀は禁止されていたんですけど中にはコッソリ隠れてやっている連中も大勢いました」
「六種併用とかなんとか言って…」
「そう。あなた、よくご存知ですなあ、あの頃のことを…。パス、ストマイ、ヒドラジッドの三薬のほかにクランケが勝手に酒、タバコ、麻雀を併用したりして…。今見た夢はその頃のことなんですがね」
「ほう……?」
昭和三十年と言えば、この市立病院の結核病棟にも常時三百名近い肺結核の患者が入院していた。
大部分は中軽症の患者で、二、三年の療養を終えて退院していく。
めざましい新薬発見のおかげで肺結核は昔ほどおそろしい死病ではなくなっていたが、それでも死者がまったくなかったわけではない。
とくに手術の失敗(もちろん病院側はけっしてそういう表現を採らなかったが)による死亡率は思いのほか高く、死亡しないまでも全身の状態が手術前よりはるかに悪化し、こんなことなら手術をしないほうがよかったというケースがけっして少なくなかった。
N先生は昔を思い出すような口ぶりで話し続けた。
「夢の中で私が病室に入って行くと、四人のクランケが卓を囲んで麻雀をやっていました。これが現実ならば、クランケも大慌てで毛布かなんかをかぶせるところなんでしょうが、夢の中では四人とも平気で打ち続けています。私も私で、根が嫌いな方じゃありませんから、一人のクランケの背後に立って、じっとゲームの進行を見物していたわけです」
「はい」
「そのときドラは八索で、彼の手の内には八索が三枚もありました。しかも、だれかがカンをして王牌をめくると、もう一枚七索が出ました。八索がダブルのドラになり、暗刻ならば、もうそれだけで六翻でしょう」
「すごい手ですね」
「そのうち対面でリーチがかかり、その男は自分に不要な八萬を自摸ってきました。男は対面の捨て牌を見て、じっと考え込んでいましたが、少なくとも八萬は安全牌ではありません。でも、こっちはもう一息でハネ満から倍満になろうという手ですねからねえ。私はためらっている彼に言いました。
"おりるのはもったいないよ。八索が三枚もあるんだから、八萬を思い切ってきるんだな"
それでも彼はイジイジと迷っています。
"そうですねえ、でも……"
"あなた、負けているんでしょ"
"ええ…。でも、このまま終われば、わずかな負けですむし…"
"そんな弱気を言っちゃダメだ。男なら絶対八萬を切るべきだ"
私はほとんど命令でもするように強い語気で言いました。
"そうですか。先生がそうおっしゃるんなら…"
彼は元気のない声でこう言って、しふしぶ八萬を捨てました。
"ロン。それだ"
とたんに対面が大きな声をあげて牌を開きました。目もくらむほど大きな手です。その瞬間、男がうらめしそうに私のほうを振り向いて、
"命取りになりましたね"
痰の絡んだような声で言うんです。
あ
顔は灰のように白く、眼は焦点も定まらずボンヤリと虚空を見つめています。明らかに死んだ人間の表情です。紫色の唇だけがヒクヒクと動いていました。
気がついてみると、その男は私のクランケでした。彼は一年前に右の肺を三分の二ほど切除し、残った左の肺にも、まだ大きな病巣があると言う重症患者なんです。
死人のような表情で見つめられ、私はおそろしくなって逃げようとしましたが、足がすくんで動けません。
灰色の、木の枝のような手が私の白衣を握ろうとしています。恨みがましい死人の顔がグングン大きくなって私の目の前に迫ってきます。
たぶんこの時ですよ。私がうなされて、おそろしい声をあげたのは…」
「きっとそうでしょうね」
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