ショートショート

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    もの憂いばかりにおぼろな春の午後、ニョッキリと宙にそびえ立った高層ビルの真上に純白の雲が一つ、動くともなくポッカリと浮いていた。

    ビルの最上部の広間にはサラリーマン風の男たちが数十人集まって先ほどから紫煙を吐きながらざわめいている。

    「いい日和だ」

    「まったく。麻雀なんかやってる日曜日じゃないなあ」

    「家族連れでピクニックにでも行けば、いいパパなんだが…」

    「それができないんだなあ、オレたちは」

    「アハハハハ。お互いに因果な趣味を持ってしまった」

    「しかし "お呼びのナカさん" も張り切ってるじゃないか。こんな見晴らしのいい部屋を借り切って」




    窓からのぞくと眼下には玩具のような自動車が色とりどりの屋根を見せ、そのあい間に小さくうごめく人の群れがあった。

    「みなさん、お待たせいたしました」

    ハンディ・スピーカーを持った男が部屋の片隅に立って声をあげた。

    それが "お呼びのナカさん" だった。

    「ただいまより新角ビル王座決定麻雀大会を開催いたします。ゲームの開始に先立って、この大会の名誉会長、四菱製機取締役発田万二郎氏よりご挨拶をたまわりたいと思います」




    紹介を受けて恰幅のいい紳士がマイクを握った。

    「本日はご多忙のところ、また日曜日であるにもかかわらず遠路はるばる麻雀大会にお集まりいただきまして、まことにご苦労様でございます…」

    名誉会長の頬に微笑が浮かんでいる。

    場内にも小さな笑いが波立っている。

    雰囲気はすこぶるなごやかだ。

    新角ビルに勤めるさまざまな会社のサラリーマンが、たとえその中のほんの一握りの人数にせよ、こうして会社の枠を超えて親睦の集まりに参加するのは今までに例のないことであった。


    ナカ氏はスピーチに耳を傾けながら心中ひそかに思った。
    「やれやれ、これで大成功。苦労の甲斐があったというものだ」
    ナカ氏は四十二歳、四菱製機総務部第二課の課長補佐である。
    麻雀歴は二十年を越え、実力はともかくルールにくわしいのと "つきあい" のいいことでは仲間内でつとに有名だった。
    三人メンバーがそろって、もう一人足りないときには決まって、
    「じゃあ、ナカさんを誘ってみようか」
    「うん、それがいい」
    連絡をとればナカ氏は万障繰りあわせて駆けつけてくれる。
    これが "お呼びのナカさん" と呼ばれるゆえんであった。

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    こんなナカさんだから若い頃にはせっかくのデートをすっぽかしたりすることも何度かあったらしい。

    「あたしより麻雀のほうが好きなのね」

    ガールフレンドになじられ、ナカ氏は頭をかきながら、

    「いや、そんなことはない。これも仕事のうちなんだよ」

    「さあ、どうだか…」

    「いや、本当だよ」

    一生懸命弁解したが、二度三度重なれば女は去ってしまう。

    それ以来デートにはめっきり縁がうすくなり、三十五歳を過ぎてからなんとなく見合いをし、結婚をした。

    男の子が二人生まれた。

    当然のことながら家族は "お呼びのナカさん" の最大の被害者だった。








    「あなた、ほどほどにしてくださいよ」

    女房にそういわれて、ナカ氏も何度か麻雀をやめようと思ったが三人の仲間に誘われると彼の性格としてどうしても断れない。

    「これも仕事のうちなんだよ」

    ナカ氏は口癖のようにいつもこう弁解していたが、そのうちにナカ氏の麻雀は確かに "仕事のうち" といった様相を帯びるようになった。


    ナカ氏は、 "つきあい" がいいばかりではなく、どんなメンバーとやっても大きく勝たないし、大きく負けもしない。

    だから、どこのグループからも気安く声をかけられ "お呼びのナカさん" の顔は会社ではもちろんのこと同系会社の中でも知れ渡るようになった。




    セクト主義の盛んな現代の企業の中では、こういう人間は仕事の上でも結構重宝がられる。

    課の壁、会社の壁を越えた仕事となると "お呼びのナカさん" は恰好な橋渡し役となった。

    同僚たちの中には、

    「なんだ。どこにでもフラフラ顔を出して…」

    と、苦虫を噛みつぶす人もいないわけではないが、

    「いや、あれはあれで大変な特殊技能だよ。大したものだ」

    こういう評価が大勢を占めた。


    上役にもナカさんの特殊技能を認める人が多く、去年の人事異動では高卒職員としては珍しい抜擢を受けて課長補佐になった。

    それに気をよくしたナカ氏がいわばご恩返しのつもりで計画したのが今日の大会だった。


    【第四の男】の続きを読む

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    枕もとの時計を見てサトウ氏は "しまった" と思った。

    時刻は四時を十数分過ぎている。

    なんということだ。

    午前五時に集合と堅く命じられていたのに…。

    職場まで車を飛ばしても四十分はかかる。

    重大な職務をゆだねられていながら朝寝坊をするなんて、とても許されない。

    サトウ氏は布団を蹴って跳び起き、新しい下着と制服を身につけた。

    それから電気カミソリをポケットに突っ込み、車庫から車を出した。

    ハンドルを握りながら片方の手でひげを剃る。

    四時二十分。

    スピードを出せばギリギリ間に合うかもしれない。



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    昨夜はなかなか寝つかれなかった。

    まどろんだかと思うと、すぐにおかしな夢を見た。

    庭の片すみに高い木があって、緑色の木の実がぶらさがっている。

    近づいてよく見ると、みんな人間の首だ。

    瞳のない、白い眼が恐ろしい。

    驚いて目を覚ましたらもう眠れなくなった。

    時計が三時を打ったのを覚えている。

    いっそあのまま起きてしまえばよかったんだ。

    ついうとうとしたばっかりに寝過ごしてしまった。


    県道に入ってサトウ氏はスピードを八十キロにあげた。

    雨雲が垂れ込め、夜明けにはまだ間がある。

    こまかい雨と靄が視界をさえぎって見通しは最悪だ。

    速度計は確かに八十のあたりを指しているのに車の動きがやけにもどかしい。

    こんな時に限ってやたらと赤信号にかかる。








    今日ばかりはどうしても遅刻するわけにはいかない。

    サトウ氏はさらに車の速度をあげた。

    あと四分で五時。

    ようやく前方に長い灰色の塀が見えて来た。

    うまくいけばきわどいところで間に合うかもしれない。

    赤信号を二つ、スピードをゆるめずに突っ切った。

    ついでにもう一つ信号を無視しようとしたとき、急に塀のくぼみから黒いものが走り出た。



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    「ああ、いい気持ち。儲けちゃったな」

    首までドップリ炬燵につかって私はテレビの深夜劇場を見ていた。

    新婚一年目で、住まいは民営アパートの四畳半。

    小さな炬燵がほしいと思って、昼間、裏通りの古道具屋さんで電気炬燵を一つ買って来た。

    それがポカポカと、とても暖かい。

    新品なんか買わなくて、ほんと、得をしちゃった。






    亭主はただいま出張中。 

    独りでのんびりとテレビを見ていると、いつの間にかうつぶせのままウトウト寝込んでしまった。

    …………

    初めはだれかがネグリジェのすそをそっとかきあげている、と思った。

    とても臆病な、とてもたどたどしい動作で…。







    「彼が帰って来たのかしら?」
    ボンヤリとそう思ったけれど、彼ならばもっとガサガサ乱暴な音をあげて入ってくるはずだし、それに今朝は鍵を持たずに出て行ったし…
    「私、夢を見ているんだわ」
    そう思って一層深く炬燵の中に潜り込んだ。
    そのうちに下着に手が掛かり、少しずつ脱がせ始めた。
    ちょっと動いては手が止まり、少し休んではまたモソモソと動きだし、ものすごく遠慮しているみたい…。


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    私は脱がせやすいように軽く腰を浮かせた。

    でも、これはみんな夢の中のこと。

    少しくらい冒険(アバンチュール)を楽しんでもいいと思った。

    だれかが四つん這いになって、うしろから私をじっと見つめている。

    視線がとても熱い感じ…。

    「恥ずかしい」

    そう思った。

    まるでケダモノみたい。

    でも、そう言えば、足もとで私を撫でているのも人間じゃないみたい。

    四つ足のケダモノかしら?


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    家内を殺そうなんて、そんなだいそれたことを考えたことは一度もなかったんですよ。

    これは本当です。

    考えてみれば、ガミガミと口やかましいばかりの女で、金遣いは荒いし、家事はろくにやらないし、やさしいところは一つもないし、なんの取り得もないやつでしたからね。

    一生の不作です。

    こんな女とよくもまあ四十年も一緒に暮らして来たものだって、今思うと自分の辛抱のよさがつくづく不思議になりますよ。






    でも、殺人なんてぜんぜん頭に浮かばなかった。

    私は意気地なしだったんですね。

    それを教えてくれたのは、あの男なんです。

    あの男と言ってもご存知ないと思いますけれど…。



    彼は私の碁がたきなんです。

    先生と呼んだ方がよろしいのかな。

    白を持つのはいつも彼の方ですからね。

    初めのうちは「この手がいい。これは俗手だ」なんて、碁の手筋を教えてくれるだけでしたがネ、そのうちにいろいろと人生の教訓まで垂れてくれるようになりましてね。

    もし彼に会わなかったら、私もこんな気ままな余生が送れたかどうか…本当に感謝しているんですよ。


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    ええ、碁は昔から好きでした。

    しかしサラリーマンのころはなかなかいい相手に恵まれなくて…。

    私自身、偏屈で人づきあいのわるいほうですからね。

    だから本気で碁が好きになったのは仕事をやめ、彼と会うようになったからなんです。

    囲碁というのは奥行きの深い遊びでしょう。

    勉強すれば勉強するほどあきるということがありません。

    すっかり夢中になって、朝から晩まで、晩から朝まで、それはもう四六時中碁盤にしがみついていたい心境でしたよ。


    家内にはそれがおもしろくなかった。

    「そんなくだらない遊びをするより庭掃除をしろ」とか「職安にでも行って、なにか家計のたしになる仕事を捜せばいい」とか、口うるさく指図して、それでも私が知らんぷりをしていると、ヒステリーを起こし馬鹿呼ばわりをして碁盤を蹴とばすんですよ。


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    「あなたの年齢で急にアクアラング潜水を始めるのは、少し無茶かもしれませんねえ」

    ボートの上であらい息を吐く私に、指導員の男がなぐさめるように言った。

    私は五十五歳。

    たしかに今さら潜って海底散歩を楽しむ年ではないだろう。

    指導員は内心 "馬鹿なやつだ。いい年をして" と思っているにちがいない。

    だが、私には私なりの理由があってのことなのだ。



    「ええ。それはよくわかっているんですけどね。ただ、どうしてもやってみたいものですから」

    私はいいわけでもするように気弱につぶやいた。

    ドボーン。

    大きな水音が響いて黒い装備のダイバーが海の中へ落ちて行く。

    このあたりは水深十四、五メートル。

    箱めがねでのぞくと、ダイバーたちのもどかしそうな歩みがよく見えた。

    「年取ったダイバーは、このクラブにいないんですか」

    私は船の上のストーブで体を温めながら尋ねた。

    「そりゃ、いないこともないですけど、みなさん若い頃から基礎訓練をやっている人たちですからね」

    アクアラングの重量は十五キロもある。

    ウェット・スーツを着て、潜水マスクをかぶり、足ひれをつけ、そのうえにこの十五キロのアクアラングを背負うと、地上では相当の重労働だ。

    しかし水の中に入ってしまえば、浮力の影響を受けてほとんど重さを感じない。

    しかも私は子どもの頃から水泳ぎは得意だった。

    今でも四、五百メートルなら楽に泳げるだろう。

    だからアクアラング潜水くらいと、たかをくくっていたのだが、実際に訓練を受けてみるとこれがなかなか思ったようにいかない。

    高圧の酸素を吸うので呼吸の調節がうまくいかず、四、五分間も潜っていると、もう息が苦しく心臓がドキドキと今にも破裂しそうに動悸を打つ。


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    「あなたも若い頃からお始めになればよかったのに。二十年くらい前にも一度ブームがあったんじゃないですか」

    指導員の口ぶりは、まるで昔アクアラング潜水がはやったときに私がちゃんと遊んでおかなかったのをとがめているようにも聞こえた。

    今さらそんなこと言われたって仕方がないじゃないか。





    そう。

    私は小さいときから海が好きだった。

    水中めがねで見る海の底は神秘にあふれていて、いくらながめても見あきることがなかった。

    だから以前にもアクアラング潜水をやってみたいと思わなかったわけではない。

    「そうですね。二十四、五年前になりますかね。ゴルフやアクアラング潜水がやたらはやった時期がありましたよ。ただ、あの頃の私はレジャーどころじゃなくってね。なんとかマイホームを建てようと夢中になっていたものだから」

    私は苦く笑って言った。

    親父は一生借家住まいだった。

    家一軒建てることもできずに死んでしまった。

    子どもたちに何一つ残さずに…。

    だから私はサラリーマンになったとき、なんとか自分の働きで自分の家を持とうと思った。



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    🟩美女満載



    何歳に見えます?

    えっ、五十歳?

    ひどいなあ。

    いくらハゲ頭がピカピカ光っているからって…。

    まだ二十五歳なんですから。

    ホント、ホント。

    でも、こうきれいに頭の毛がなくなっちゃ、そう見られても仕方ないのかな。

    ハゲ頭になったのは中学三年生のときなんです。

    ううん、べつに病気じゃない。

    ボクはその頃、一流高校に入学しようと思って、塾に通いながら猛勉強をしていたんです。

    ボクよりママのほうが熱心だったけど…。








    だけど、ボクは生まれつき頭がよくないでしょう。

    いくら努力しても成績はサッパリあがらないんです。

    模擬テストを受ければ、いつもビリのほうだし…。

    とても一流高校なんか入れっこない。



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    そんなとき、ママが耳よりの話を聞いて来てくれたんです。

    ほら、ゼロックスとか、リコピーとか、書いたものがそのまま写る複写機があるでしょう。

    原理はあれとおんなじだと思うんです。

    いや、原理はまるでちがうのかもしれないけど、やり方はあれとソックリなんですよ。

    覚えなければいけないことを紙に書いて頭の上に載せ、そのまま複写機のお釜の中に頭を突っ込みます。

    強烈な光が頭の上を通過したと思うと、紙に書いてあることがみんな脳味噌に複写されるんです。

    本当ですよ。

    英単語だって、数字の公式だって、これで複写すればバッチリです。

    次から次へと、ドンドン詰め込めるから、スイスイ暗記ができちゃうんです。

    ただね、複写機に頭を入れるとき、髪の毛が生えていちゃ駄目なんです。

    記憶の邪魔になるでしょう。

    だから、どうしても頭をクリクリ坊主に剃らなければいけない。

    ボクの家は、おじいさんもロマンスグレイだったし、パパもまっ黒な髪だった。

    絶対にはげる血統じゃなかったけれど、まともな方法で勉強してたんじゃ一流校なんて無理だったもんね。








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    「だから言っただろう。女はナルシストだから、絶対に麻雀は強くなれないって…」

    「あら、まだゲームが終わったわけじゃないわ」

    「じゃあ、オーラス行くぞ」

    青木が勢いよくサイコロを振った。

    土曜日の午後である。

    商社マンの青木はしゃれた雀荘の一室でクラブのホステス三人を相手に卓を囲んでいた。

    ことの起こりは三日ほど前の夜で、青木は銀座のクラブで社用の酒を飲みながら言った。

    「女は自分の力を冷静に判断することができないから、麻雀をやっても絶対ダメだね」

    するとホステスの眉子が横から口をはさんで、

    「そうかしら?あたし今までほとんど負けたことなくってよ」

    「それは相手が飴をなめさせてくれてんだよ」

    「そんなことないと思うわ。お金賭けてんですもの」

    「お金なんか…ものはためし、眉ちゃんが "体を張る" って言ってごらん。みんな本気にぬるから、まず勝てっこないね」

    「じゃあ、青さんやってみる?」

    「願ってもないね」

    「ぜひやりましょうよ」






    眉子は勝気なホステスである。

    短大を出てすぐこの世界に入り、二年ばかりのうちにナンバーワンを争うほどの売れっ子になった。

    器量は十人並み、客扱いもそううまいほうではなかったが、なぜか眉子ファンは多い。

    ヤンチャなお嬢さんみたいな明るさがあって、それが中年のおじさま族によく受けているらしかった。

    だがホステス業に好都合な性格が、そのままギャンブルにとってもプラスになるとは限らない。

    特に眉子のように短い期間で華やかな座に着いたホステスには、男の世界を甘くみるくせがぬぐいきれない。

    一流の客たちと毎晩飲んだり騒いだりしているうちに、自分もつい一流の人物になってしまったような、そんな錯覚にとらわれやすいものだ。

    お遊びの相手として適当にあしらわれているのも忘れて、ついつい自分の力を過信してしまう。

    こんな性格の人がギャンブルに強かったためしはない。





    「じゃあ、青さんが負けたらすてきなプレゼントをして。あたしが負けたら…いいわよ。お望みのものを進呈するから」

    青木が眉子の挑戦に応じたのはもちろんである。

    青木が考えた通り眉子の技量はたいしたものではなかった。

    聴牌をすれば、すぐにリーチをかける。

    あがれなかったときには自分の手を開いて、

    「ああ、ついてない。惜しかったわあ。倍満になるとこだったのに…」

    と、大仰にくやしがる。

    引っかけリーチでうまくあがったときなどは、

    「ね、うまい人なら当然出すはずなのよ「

    喜色を満面に浮かべて青木の顔を見つめた。

    半荘二度の約束で始めた勝負だったが、最初のゲームは青木の独り浮き。

    眉子はどうにか原点すれすれを確保したが、第二ゲームはいけなかった。

    オーラスを迎えて沈みは見二万点あまり。

    青木から約満貫でも奪い取らない限り、とても合計点で青木に勝つことはできなかった。




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    「このメンバーなら、何度やってもトップを取る自信があるな」

    「ついているだけよ。あたしだって、いつもはもっとつくのよ」

    眉子はまだ譲ろうとしない。

    「女はこれだから困る」

    「あっ、それ、ポン」

    眉子が緑發をないた。

    「眉ちゃん、約束は本当に守るのかい?」

    眉子は同僚のホステスに気がねをして、ちょっと目くばせをしたが、

    「守るわよ。青さんこそ負けたらダイヤでも贈ってよ」

    「これで終わりだろう。もう負けっこないよ。どうするんだ、緑發なんかないて?安いなあ」

    「ドラをたくさん隠してあるのよ」

    どうやら眉子には点棒の数もよくよめていないらしい。

    倍満であがってもまだ足りないのだ。






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    「それ、ロン」

    青木が八索を捨てると、眉子が声をあげた。

    「混一、緑發、チャカチャカ…満貫にならないわねえ?」

    「せいぜい五千二百かな」

    「あら」

    眉子が牌を開きながら手を止めた。

    「どうした?」

    「これ、ほら、なんとかっていうんでしょう?」

    「えっ」

    「オール・グリーンとか…」

    青木が身を乗り出した。

    「役満貫ね」

    「そうだ」

    「バンザーイ!それみなさいよ。負けるはずないのよ。いつだって絶対に勝つんですもの」

    勝負は一瞬にして大逆転となった。

    もし眉子が自分の手の大きさを知っていたら、興奮を顔に隠すことができなかっただろう。

    隠すことができなければ、青木がみすみす八索を振ることもなかっただろう。

    しかし今さら悔やんでみても仕方がない。

    負けは負けに変わりがなかった。

    「ね、そう見くびったものじゃないでしょう」

    「まあな」

    青木は言葉少なにうなずいた。

    当分は眉子の自慢話を聞かなければなるまい。

    思えば痛恨の八索であった。



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    あなたは一年生。
    もうすぐ七歳になる。
    家は木造アパートの二階で母さんはいつもいない。
    母さんは東町のレジャー・ランドでキップ切りをやっている。
    学校が終わると、あなたはアパートの鍵をあけ、だーれもいない部屋へ帰る。
    テーブルの上のおやつを食べ、ヤクルトを飲む。
    それから文字盤に漫画のいっぱいかいてある置き時計を見る。
    針が縦にまっすぐになるまでには、まだまだたくさんの時間、待たなければならない。
    あなたはプラモデルや、模型飛行機のセットを出して見る。
    工作は大好き。
    だけど工作はとてもむつかしくて、いつも上手に作れない。







    急に窓の下で子供たちの声が聞こえる。
    あなたは大急ぎで部屋を飛び出す。
    ヤッちゃんとミサちゃんは仲よし。
    マコちゃんは意地悪だ。
    でも五時を過ぎると、みんな家へ帰ってしまう。
    あなたはもう一度ひっそりとしたアパートの部屋へ戻る。
    そして、少しだけテレビを見る。






    ボン、ボン、ボン、ボン、ボン、ボン。
    時計が六つ音を鳴らすと、あなたは待ちかねたように外に駆け出る。
    繁華街を走り抜け蛇屋の角でちょっとだけショウ・ウインドウを眺め、それから次の大通りを曲がって立体交差の踏切りを越せば、もうレジャー・ランドの裏門は近い。
    秋の日は西の向こうにストンと落ちて、さっきまで長い尾を引いていたあなたの影法師も、今はもうどこかへ逃げて行ってしまった。
    鈍色の空の下でネオン塔の光だけが、次第に確かな輝きに変わっていく。 







    「やあ、ヒロちゃん。お迎え?」
    顔見知りのおばさんが、あなたの頭を撫でながら柵をあけてくれる。
    レジャー・ランドの閉門は午後五時半。
    だからもうお客さんの姿はどこにもない。
    木馬も電車もロケットも、みんなシートをかぶり声を殺してうずくまっている。
    菊の香り。
    夜のとばり。
    風の静けさ。
    あなたは、いつか童話で聞いた動物たちの墓場のことを思い出す。
    菊の花は死人の匂いだ。
    夜の暗さは死人の国だ。
    そして音のない風は死人の声…。
    冷たさが心の中を走り抜ける。
    母さんはどこにいるのだろう?





       



    「ヒロちゃん」
    闇の中から突然声が聞こえて、作業服のまま母さんが近づいて来る。
    母さんはポケットからガムを突き出す。
    あなたは黙って受け取る。
    うれしい。
    でも、それを顔に出すのが恥ずかしい。
    ガムは甘くてハッカの味が喉にしみる。
    「明日から菊人形が始まるのよ」
    「菊人形って、なに?」
    「菊で作ったお人形よ。今、おじさんたちが作っているわ。見る?」
    「うん」
    母さんは、あなたの手を引いて歩きだす。
    急に西風が強く吹いて来て、あたりに散った紙屑をクルクルと廻す。
    ポップコーンの袋、ウルトラマンのマスク、焼きそばの紙皿。
    みんな小さな竜巻きに乗って空に舞いあがる。
    広告塔がガタガタと恐ろしい音をたてる。
    「あそこよ」
    母さんが指差す先にベニヤ張りの大きなバラックがある。
    あれはいつもお化け屋敷をやっているところ…。
    あなたは、そこで見た不気味な場面を思い出す。
    古井戸にさがる首、音もなく開く棺の蓋、老婆の青い手…。
    お化けは本当にいるのだろうか。









    「今晩は。ちょっと見せてくださいな」
    母さんが入口で声を掛ける。
    中に入ると、菊の香りがムッと鼻を刺す。
    天井は暗く、長く垂れた電球が、大きな菊の山をボンヤリと照らしている。
    おじさんたちが、木の棒を立て、針金を巻き、その上にせっせと菊の着物を着せていく。
    できあがった人形は、闇の中にスックと浮かびあがる白い影。
    おぼろな生命。
    あなたはブルっと身震いをする。
    「ほら、ヒロちゃん。乙姫さまと浦島太郎よ。きれいでしょう?」
    「うん」
    あなたは仕方なしにうなずく。
    母さんはこんなものが本当に好きなのだろうか。
    乙姫さまも浦島も、紙のようにしらじらと立っているだけなのに…。





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    月末の残業を終え、事務室を出たのは夜の十一時に近かった。
    まったく人使いのあらい会社だ。
    部屋にはだれも残っていない。
    ドアの脇のスイッチを押すと、事務室が急に暗黒の倉庫に変わった。
    コト、コト、コト…。
    私の靴音だけが廊下に響く。
    ロッカールームはひっそりと静まりかえって、まるで西洋の死体置き場のようだ。
    「死体置き場…」
    どうしてそんな言葉を思い出したのだろうか。
    やはりN君のことが頭のどこかにのこっているのかな。








    N君は高校を終え、私といっしょにこの会社に入った。
    ひとめ見たときから気弱な印象の男だった。
    女にしたらさぞかし美人になりそうな、そんなやさしい面差しで、性格も顔立ちに負けず劣らずおとなしい。
    おとなしすぎるくらいに…。
    言っちゃあわるいが、そばにいると、ついついいじめたくなってしまう。


    そのN君が社内でも一番底意地のわるいS課長のところに配属されたんだから運がない。
    N君もずいぶんとつらい思いをしただろう。
    実際の話、S課長の新人いびりは相当なものだ。
    うわさは山ほど聞いている。
    新入社員を鍛えるというたてまえにはなっているが、本当にそれだけかどうか。
    一種のサディズムなんだな、あれは。
    やりかたもきたない。
    仕事のうえで、わざと落とし穴を作っておいて、そこへ部下が落ちるのを待っている。
    落ちたところで舌なめずりをして近寄って行って、どなり散らし、それからイジイジといやみを言う。
    へたに反抗すると、もっとひどいわなを仕掛ける。
    たまったものじゃない。

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    その夜、二匹の風邪のビールスが風に揺られて町をさまよっていた。
    雲は凍てつき、今にも雪の降り出しそうな寒い夜だった。
    「寒いな。だれか人間の体の中にもぐりこもうぜ」
    「うん。このままじゃ凍え死んでしまうぜ」
    そうつぶやきあっているとき、二人のサラリーマンが町角にに現れた。
    「あれにしよう」
    「あんまりいい男じゃないな」
    「より好みしているときじゃないぜ」
    「まあ、そうだ。二人ともいいあんばいに疲れているらしい」
    二匹は風に揺られて男たちの口元に近づき、二人が息を吸った瞬間に、スイと鼻から肺へともぐり込んだ。





    男たちの名はマジメ氏とナマケ氏。
    同じ会社に勤めるサラリーマンだった。
    マジメ氏はその名前の通り生真面目な男で、この日も夜遅くまで残業をし社宅へ帰る途中ちょっと駅前の居酒屋に立ち寄った。
    体は綿のように疲れていた。
    一方、ナマケ氏は退社時刻を待ちかねるようにして会社を出て、そのまま麻雀屋へ足を向けた。
    それがナマケ氏の日課だった。
    昨夜も一昨夜も十二時過ぎまで雀卓を囲んだ。
    「たまには少し早めにきりあげようぜ」
    「ああ、そうしよう」
    十時過ぎに麻雀屋を出て、駅前の居酒屋に立ち寄った。
    そこでマジメ氏に出会った。
    「ぽつぽつ帰ろうか」
    「ああ、オレも少し疲れた」
    「麻雀も結構疲れるものらしいな」
    「うん。仕事より疲れるぜ」
    店を出て大通りの角にさしかかったとき、折あしく二匹のビールスとめぐりあったのだった。



























    【風邪とサラリーマン】の続きを読む

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    「先生、関係者がみんなそろいました」
    十二畳はあろうかという広い応接間に、猫神家の一族が全員集まって席に着いていた。
    天井から黄ばんだシャンデリアが垂れ、室内に影の多い光を投げかけている。
    ある者は神妙に眼を閉じ、ある者はふてぶてしく腕を組んで鼻孔をふくらませていた。
    「うむ」
    中央の席にどっかと腰をおろしているのが、あの名高い銀田一探偵。
    しかし、寄る年波には勝てず、髪は白く、入れ歯はゆるく、おまけに去年の軽い脳卒中のため、葉巻を持つ指先もワナワナと震えていた。






    「先生、ご隠居様を殺した犯人はだれでしょうか?早くその名を教えてください」
    猫神家の主人、猫神狂一郎は一ヶ月前、自宅の居室で非業な最期をとげた。
    毒薬は昔なつかしい石見銀山の猫いらず。
    就寝前に飲む煎じ薬の中にだれかが投入したらしい。
    それが、だれか?
    警察は必死の捜査を続けたが、日を重ねるにつれ迷宮入りの気配が色濃く漂うばかりであった。
    そこへ登場したのが銀田一探偵。
    推理小説の大団円さながらに、本日この席で犯人がだれか、その絵解きがおこなわれる手はずになっていた。










    「さよう」
    探偵はジロリと周囲に目を配り、おもむろにつぶやいた。
    そのポーズはいかにも堂に入っていたが、その実、探偵の頭の中にはなに一つとして目算が立っていなかった。
    犯人がだれなのか、動機はなにか、犯行の経過はどうか、なにもわかっていなかった。
    本来ならば、まだ関係者を一堂に集める段階ではないのだが、警察署長に、
    「先生、もうボツボツいかがでしょうか。現代はスピードの時代です。遅いのはきらわれます。角川書店も待っておりますし」
    と、そそのかされ、ついウッカリこの席に来てしまった。





    「えー、これは明らかな殺人である。だからして犯人は必ずいる。しかし、犯人は人間とは限らない。猫かもしれない。その時は犯人ではなく犯猫である。あるいは犬かもしれない。その場合は犯犬である。犯犬と言えば、この作品の版権はどうなるのじゃ」と、わけのわからないことを話し始めた。
    初めのうちは一座も緊張して聞いていたが、次第にしらけムードに変わった。
    「先生、先生は本当に犯人の名がわかっておいでなんですか」
    「知っちょる、知っちょる」
    「じゃあ、早く言ってください」
    「あせるな。あわてる乞食はもらいが少ない。アッハハハ」
    銀田一探偵が脳軟化を起こしているのは、言動から察して明白だ。
    こんな人に犯人を名ざすことができるのだろうか。
    しかり。
    銀田一にはもうどんなすいりをする力も残っていなかった。
    彼はただ時間かせぎの長広舌をふるうだけであった。
    あわれ、あわれ、銀田一のあのすばらしい才智も、生涯の最後において汚点を残すのだろうか。
    犯人は逃げのびるのだろうか。





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    「麻雀が本当にうまくなると、牌をフランネルの上に滑らしただけで、その牌がなにかわかるんだぜ」
    私がまだ麻雀を習いたての頃、その道の先輩から、こんな夢みたいな話を聞かされたのを覚えています。
    「本当かい?すごいもんだなぁ」
    その頃の私は、ろくに盲牌もできないありさまでしたから、半信半疑で先輩の話をありがたく拝聴していました。
    彼は得意そうに鼻をうごめかし、
    「本当さ。牌にはいろんな文様が掘り込んであるからね。白板のようになにも彫ってない牌なら、フランネルの上をほとんどなんの抵抗もなく滑って来る。九索は縦にはよく滑るけど、横に引くと抵抗がきついんだ。九筒は縦にも横にも、どこかまるーくひっかかるところがある。それやこれやで本当の名人は牌を軽く滑らせただけで、その牌が何か、みんな読めちゃうんだ。キミも早くそうならなきゃ…」
    たしかに理屈としては、そんなことも可能かもしれません。
    しかし人間の指先は、そんなわずかな差異を感じわけるほど鋭敏なものでしょうか?
    私は根が信じやすいタチですから、この話を聞いて何度か実験してみたのですが、一番やさしそうな白板でさえ、とても私には感じ分けることができません。
    そのうち私の麻雀もいくらか上達し、事情がよくわかるようになると、
    「あんなこと、できっこない。さては、あいつにかつがれたのか」
    と真相を知って苦笑し、いつの間にかこの話自体すっかり忘れてしまいました。
    もし思い出すことがあったとしても、それは一つのジョークとして、例えば剣豪の刀の鍔がカチンと鳴っただけで目の前にいる人の首が落ちていた、といった話と同じように、いかにもありそうなバカ話として、だれかに語ったことが一度や二度あったかもしれません。












    ところが一昨夜のこと…。
    私は都内の旅館で親しい仲間二人と、それからメンツが足りないので宿の主人に加わってもらい、夜の九時過ぎからジャラジャラと卓を囲み始めました。
    雨がシトシトと降りこめ、妙にものさびしい夜でしたね。
    最初の半荘がもう終わろうという頃だったと思います。
    私は七対子の闇聴で白板を待っていました。
    言い忘れましたが、この仲間とやる麻雀はいつもマナーが厳格で、特に先自摸は絶対に許されません。
    上家が手間取っていても、せいぜい牌を河の上で滑らして自分の近くに引いておくだけの約束です。
    その時も上家が考え込んでいたので、私は、
    「遅いぞ。新聞!新聞!」
    などと言いながら、指先で牌を滑らせ手元に引き寄せたのですが、その瞬間、"あ、ひっかかる" こう感じたのです。
    牌がどこかねばっこく、卓に張ったフランネルにまとわりつくような感触でした。
    手番が来て開いてみるとそれが白板で、私は自摸和りを喜びながらも、心の中で、
    「へえー、白板がねばるのか。おかしいな」
    と思って、急に昔聞いたあの話を思い出したのです。












    これがたった一回の体験ならば、すぐに忘れてしまうのですが、その夜はどうしたわけか白板を待つケースが多く、そのたびに指先に神経を集中していると、白板のときにはかならず微妙な感触があって、それとわかるのです。
    私は心中ひそかに興奮しました。
    「あの話は本当だったんだ。オレにも白板がわかるようになったらしい。これからは滑らしただけでいろんな牌がわかるようになるかもしれないぞ」
    こう思うと同時に、もう一方では、
    「世間には、どんな名手がいるかわかりゃしない。滑らしただけで牌がわかるやつと勝負をして、オレが勝てるわけないな」
    あらためて畏怖の気持ちを抱いたりもしました。
    結局この夜の勝負は、白板がよく読めたせいかどうか、私のひとり浮きになったのですが、ゲームの終わったあとで、私は牌をつまみながら、ふと漏らしました。
    「この白板、滑らせただけでわかるね。糊でもついているみたいな感じがして…」
    すると旅館の主人が思い出したようにカレンダーを見上げて、
    「今日は五月二十六日でしたね?」
    「ええ…」
    私が怪訝な顔で聞き返すと、心なしか、主人の顔が青ざめています。
    「それが…どうかしましたか?」
    「何度も何度も洗ったはずなんですけど、変ですねえ」
    「……?」
    「いやな話ですけど、去年の今日、この部屋で麻雀をやっていて、死んだ人がいるんです。血をドップリと吐いて…」
    「本当ですか?」
    主人がゆっくりとうなずきながら、
    「白板が四枚血でベトベトにぬれちゃって…」
    【名人芸】の続きを読む

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    深夜の国道を灰色のセダンがつっ走る。
    道の両側はどこまでも黒い田んぼが続き、時折、稲の干場を作るポプラ並木が遠く近くに見える。
    そのポプラ並木がうしろへ飛んで行くとまた一面に黒い田んぼが続いた。
    自動車の中には若い男と女が二人。
    カーラジオがさわがしい音楽を鳴らしている。
    フロントガラスの片隅に赤いネオンの輝きが映り、それが次第に大きくなった。
    「あのネオン、読めるかい」
    敏彦が助手席のマユミに声を掛けた。
    マユミがシートから体を起こして眼を補足した。









    「それいゆ…ホテル…だわ」
    モーテルだな。今夜はあそこに泊まろうか」もう夕方から二百キロも走り続けている。つぎの町まではもう少し距離があるだろう。「いいわよ」マユミがセーラムを一本口にくわえて火をつけた。「"それいゆ"ってなんだい?」「フランス語で太陽のことだわ。それから、ひまわりの花もそうよ」「田舎のわりには、しゃれた名前だな」車がモーテルに近づくにつれ"それいゆホテル"の命名の由来は明らかになった。青い屋根に白い壁、モダンな造りの館のまわりには一面にひまわりの花が背の高い茎を伸ばし、その先端に重い、大きな花を揺らしている。「いかすホテルじゃないか」「まあね。こんなところでモーテルなんかやって商売になるのかしら」「うん。次の町まで一時間はあるからな。オレたちのように泊まる人もあるだろうさ。それに、ちょっとロマンチックな造りで、わるくないよ、ここは。ちょっと休んでみたくなる」「よほどひまわりの好きな人なのね」「そうらしい」
















    二人はガレージに車を入れ、鍵を受け取って部屋に入った。「あーあ、つかれちゃった」部屋に入るとマユミがベッドの上に身を投げた。ミニスカートが上に引かれて形のいい足が長く伸びる。「風呂、どうする?」「そうね。やっぱり入ろうかしら」「そうしろよ。あとから行くわ」二人が風呂からあがった時には、部屋はすっかり冷えていた。湯上がりのはだに乾いた空気が心地よい。敏彦がらあとから上がってきたマユミの体を抱きかかえてベッドへ運んだ。マユミは足をバタバタと動かしたが、ベッドに置かれて、敏彦の体が上からかぶさってくると自分も敏彦の背に手をまわして爪を立てた。「電気を消して」「ああ」スイッチを切ると窓をぬってかすかな月の光が部屋に忍び込んでくる。俊彦の手が乳房をまさぐり、それから少しずつ下に伸びた。マユミの体毛はしなやかで指先にやわらかくまとわりつく。二人の影が重なった。








    それから十分後二人はベッドに寝転がってタバコの煙を天井に吹き上げていた。「ここ、なんていうところ?」「さっききがついたんだが、このあたりは昔、刑場があったところだね」「刑場?」「そうだよ、東京の近くなら鈴ヶ森みたいなところさ」「じゃあ、昔この辺で罪人が首を斬られたわけ」「まあ、そうだ」「ウソよ。驚かさないでよ」「いや、ウソじゃない。バッグの中に旅行案内がある。そこに書いてあるよ」「ヤーねえ」そう言いながらマユミがブルっと身震いした。「どうした?寒いのかい」「ううん。そうじゃないの、あなたがそんなこと言うからよ。さっきから、だれか人に見られているようや気がしてしょうがないのよ」マユミがそう言いながら窓のほうを見た。窓にはひまわりの影が映っている。「まさか」俊彦が鍵をまわして窓をあけた。窓の外には何十本ものひまわりの花が並んでいた。そして、その花が、窓をあける音に驚いたように、急にいっせいに垂れていた首をあげた。茎の先には、何十という人の首が目を開いて……。


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    もの悲しい日本海の水をまっ赤に染めて太陽が海に落ちた。
    にぎにぎしい八月が去って、波の音にも空の色にも夏の別れを告げる気配があった。
    オレたちは足元に海を見おろす崖っぷちに寝転がっていた。
    あたりは一面の松林だ。
    女は花がらのビキニ姿でエアマットの上に寝そべり、次第にかげりを増していく空を見上げていた。 
    「ねえ、さっきからシュー、シューって、空気の漏れる音がするの。
    マットに穴があいたのかしら?」
    エアマットに耳を寄せると、たしかにかすかな音が聞こえる。
    「どこかな?」
    オレたちはマットをひっくり返して穴を探したが、どこにも穴はない。
    「まああいさ。どうせこの夏かぎりで捨てるつもりだったんだ」
    「惜しくないの?」
    「もうさんざん使ったからな」
    「そうなの」
    「女は気だるそうに言って、それから急にオレの首に腕を巻きつけてきた。
    オレは軽く唇を重ねた。
    「ずいぶん熱がないのね」
    女が恨みがましく言う。
    「そうでもないさ」
    「そうよ。わかるわ」
    オレは実のところ、その女が少しいやになっていた。
    この夏知り合って、行くとこまで行った女。
    七つも年上だった。








    「あなた、あたしを捨てるつもりなのね」
    「捨てる?どうしてそんなこと言うんだ」
    オレは内心ギクリとして女を見た。
    「いいのよ。そう思っていたわ。七つも年上なんですもん。すぐにおばあさんになるわ」
    そこまでわかっていれば世話はない。
    オレは黙ってマットに寝そべった。
    シュー、シューと気掛かりな音が聞こえる。
    なんの音だろう?
    「いいのよ、それは。でもお願い。今日だけは…。もう一度しっかり抱いてほしいわ」
    女は遠い海の果てを見るようにしてつぶやく。
    「しめっぽいこと言うなよ」
    「耳障りな音ねえ、シュー、シューって」
    女はビキニの背に腕をまわし、水着のホックをはずしてマットの上に身をふせた。
    ジッと目を閉じて待っている。
    オレは仕方なく女の体に身を寄せて唇を強く吸い、それから手を静かに女の胸に移した。
    乳房には張りつめた弾力がなかった。

    手を入れてまさぐると、指の中で不思議な生き物のようにグニャグニャとくずれる。
    胸の下には、浅黒いしわが何本もこまかく波立っていた。
    シュー、シューと相変わらず音が聞こえる。
    どこかが破れているれしい。
    白かった女の太腿に小じわが寄り、薬で薄く焦がしたような黒さがあった。
    前からこんなだったろうか?
    オレは目を閉じてひそやかな部分に口づけをした。
    ビロードの感触はなく、ザラッとしたものが舌先に伝わってくる。
    「あ、あ」
    女が激しく体を震わせる。
    まるでその身動きに呼応するかのようにシュー、シュー、と空気の漏れる音が大きくなった。
    「やけに空気が漏れるなあ」
    身を起こしたオレは慄然として目を見張った。
    女の頬の肉はゲッソリと落ちて目はふかぶかと凹んでいる。
    「どうしたんだ?どこか悪いんじゃないのか」
    「いいの。目をつぶってて。今わかったわ」
    「なにが…?」
    女は力なく笑った。
    「さ、お願い。もう一度抱いてよ」
    女は病人のように力の萎えた体を預けてきた。
    張りのない醜さが女の顔にも体にもはっきりとうかがえた。
    力なく開かれた脚は、ひどくいびつなものに見えた。
    舌先にゆるんだ肌がまとわりつく…。
    もう一度目を開いたとき、女は小さいしわだらけの老婆になっていた。
    「ね、わかったでしょ。あたしの空気ぐ抜けているのよ」
    女はヨロヨロと身を起こすと崖のふちに立った。
    紙のように薄く、頼りない。
    いつしか海には風が起こっていた。
    いくぶん肌に冷たい西風がヒラヒラと女を吹き上げ、吹き落とした。
    しぼんだ女は右に舞い左に揺れ、やがて滑るように灰色の海に落ちて、いく度か波に洗われながら沈んでいった。
    雲のない夕べの空に黒い鳥が飛びかう。
    その海鳥たちが運ぶ荒い潮騒の中で小さな恋が消えていった。

    【夏の恋】の続きを読む

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    「こんにちは」
    独身寮のドアを押しあけて声をかけるとおばさんは日だまりにすわったまま振り向いた。
    「あら、いらっしゃい。ドアを締めてくださいな。猫が逃げるといけないから」
    膝の前に大きなシャム猫がいて、ミルクの皿から顔をあげ、胡散くさそうに私を見た。
    「このごろ、おばさん、猫に入れあげているんだって?」
    「そうよ。ま、おあがりなさいな」
    おばさんは照れくさそうに笑って乱れた髪をかきあげた。
    髪の中に白いものがめっきり目立つようになった。
    五年ほど前、おばさんのご主人と息子さんがあいついで交通事故でなくなり、おばさんはこの世にたった一人残されてしまった。
    一時はまるで魂を失ったように家に閉じこもり、来る日も来る日もなすところなく呆然と時を過ごしていたらしい。
    たまたま私の会社の独身寮で管理人を募集していたので、おばさんを推薦したところ、うまいぐあいに採用となった。
    それ以来、おばさんは独身寮の一番日当たりのいい一室をすみかにして、少し早めの老後をひっそりと暮らしていた。
    私が部屋にあがると、シャム猫は一つ大きなあくびをしてから、パッとおばさんの肩に跳びのり、そこを踏み台にして洋服ダンスの上によじ登った。
    タンスの上には朱色の座布団があって、そこが猫の寝床らしい。
    私が手を伸ばすと、猫は軽快な色を浮かべながら後ずさりをした。
    色つやの美しい、優美な姿だが、お面相のほうは陰気くさくて、私の好みではない。
    「なんだか景気悪そうな顔をしているね」
    「そんなの。目がおかしいのよ」
    そう言われてよく見ると、両眼とも白い膜が大きな目の三分の一ほどをおおい隠し、それが猫の顔立ちをひどく貧相にしている。





    「どうしたのかな」

    「明日にでもお医者さんへ行ってみようと思うの」
    おばさんはミルク皿を台所の洗い場に置くと、今度は小エビのカン詰めをあけてガラス皿に入れ、タンスの上の猫に差し出した。
    この家ではたぶん猫が主人なのだろう。
    座布団にすわったシャム猫は召使いが差し出すご馳走にちょっと鼻をふれ、あまり気乗りのしない様子で食べ始めた。
    「いやな目つきだな」
    「そう言わないでよ」
    猫は食事をしながらも、急に自分の館に現れた訪問者に細い視線を送り、半白の眼で品定めをしている。
    「チー公、どうしたの?そんな目つきになってしまって…見にくそうだねえ」
    おばさんは無愛想な猫を見上げて、しきりに話しかける。
    今となっては猫をかわいがることだけが、おばさんの生きがいなのだろう。
    リビング・キッチンの片すみには砂を入れたミカン箱が置いてあって、あれがチー公のトイレットにちがいない。
    食卓の足は無惨にささくれ立っていて、そこがチー公の爪とぎ場にちがいない。
    そして帽子掛けにかかった首輪と皮ひもは…?
    「これ、なんに使うの?」
    「首につけて散歩に連れて行くのよ」
    「まるで犬みたいだなあ」
    「外に出したら、どこへ行ってしまうかわからないわ。盗まれたら困るし…。だから毎日朝晩1時間ぐらいずつ連れて行くのよ」

    「雨の日も?」
    「そうよ。運動不足になったらかわいそうだもの」
    おばさんが心配そうに見上げると、チー公は、またも半白の薄目をあけて、私たちを見おろした。





    それから一週間たった。
    私はおばさんの独身寮の近くまで行く用があって、その帰り道またおばさんの部屋に立ち寄った。
    ドアをあけると、おばさんは先日と同じように日だまりにすわって、口移しで猫に食事を与えていた。
    「どうだった、猫の病気は?」
    「神経症なんですって。一種の孤独病ね」
    「猫のくせに、なまいきな…」
    「遊び友だちもなく、一日中こんな壁の中に押し込められていれば、猫だってやっぱり神経がおかしくなってしまうものね。それが原因で眼に白い膜が張るの」
    「そうかな」
    「でも、ぜんぜん心配ないの。よくあることなんですって…」
    おばさんは気軽くこう言って私のほうに振り向いた。
    「だから、あたしちっとも気にしてないのよ」
    そう言うおばさんの眼も半白に膜を張っていて…。












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    少女は父に連れられて行った動物園で初めて犀を見た。
    犀の眼はやさしかったが、その太い角が少女には、ひどくまがまがしいものに映った。
    あの角で襲われたらどんなに恐ろしいだろう。
    少女は努めてやさしい犀の眼ばかりを見るようにしたが、それでも犀の角の無気味な印象をぬぐいきれなかった。
    その夜、少女は犀の夢を見た。
    夢の中でも犀はやさしい眼をしていたけれど、角は現実に見たものよりも一層おぞましく思えた。
    少女はその次の夜も、そのまた次の夜も犀の夢を見た。
    夢の中の犀は、きっとだれかを刺し殺したのだろう。
    角はまっ赤に血濡れていた。
    少女は目がさめてからも、その鮮烈な色彩を忘れることができなかった。
    いつしか犀は夢の中で少女を襲うようになった。
    逃げても逃げても犀は追ってくる。少女は犀に組み敷かれ、太く血に染まった角で下腹を突き刺された。
    少女は苦痛に頬を震わせながら犀を見上げた。
    犀の眼はどこまでもやさしく、慈愛に溢れていた。
    少女は突き抜ける痛みをこらえて犀にほほえみかけた。
    犀もうれしそうに視線を細くした。


    翌朝目をさましても下腹の痛みは根強く残っていた。

    少女がそっと脱いでみると下着にほのかな朱色が滲んでいた。
    犀はそれからもしばしば夢に現れ、角を振りかざして少女の上にのしかかった。
    恐怖と苦痛とがすっかり消え去ったわけではないけれど、少女は犀の荒々しい営みの中にかすかな歓びを感ずることもあった。
    ある朝、食卓で少女は母に犀の話を語った。
    母は唐突に箸を落としたが、それ以上は何も言わなかった。
    なぜか、空気の凍てつくような恐ろしい沈黙のひとときが流れた。
    その夜、待っていた犀は来なかった。
    次の夜も、その次の夜も犀は現れなかった。
    もう犀は少女を忘れてしまったのだろうか。
    二度と姿を見せそうになかった。


    それから何ヶ月かたって、少女が犀のことなどスッカリ忘れてしまった頃、少女の母が家をあけた。

    その夜、少女が眠りにつくと間もなく忽然と犀が現れた。
    少女はうれしかった。
    犀はまっ赤な、太い角をむき出しにして、荒々しく少女に突き立てた。
    体を貫いて激しい恍惚が走り抜け、少女は思わず声をあげた。
    歓びの体液が少女の傷跡に溢れ、犀の角を濡らした。
    すべてが終わったとき、角を抜いた犀がやさしい眼つきで笑った。
    少女が笑い返すと犀の顔が急にゆらゆらと揺れ、父の笑顔になった。
    少女はもう犀の話を母に語らない。
    犀は今でも時おり少女の夢の中に現れているだろう。































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    私は堅いベッドの中で眼を醒ました。
    眼を醒ましたと言うのは、あまり適切な表現ではないのかもしれない。
    四六時中意識がおぼろだった。
    どこからどこまでが眠りなのか、自分でもよくわからない。
    夜もなければ昼もない。
    激しい苦痛があるだけだった。
    その苦痛がいくらか薄らいだとき、トロトロと眠りのようなものがあった。
    だが、それもそう長い時間ではない。
    すぐに骨を裂く激痛が襲ってくる。
    そんなあいまをぬって、ほんのいっときだけ意識が、脳の働きが、いくらか鮮明になるときがある。
    それが、目醒めと言えば目醒めだった。
    鼻にも喉にもゴム管が通っている。
    そのわずらわしさを感ずる気力も、もう大分前からなくなっている。
    肺から始まった病魔は声帯を冒し、今は一声も出せない。
    筆談をするにも手の力が萎えて、うとましい。
    全身がベッドの中にめり込み、こうして痛みがいくらか薄らいでいるときでさえ、自分の体が自分のものとは思えなかった。

    もう死ぬより仕方がない

    何週間も前にそう考えた。
    初めのころには、死が恐ろしかった。
    自分が数十年生きて馴染んできたこの世界から、ある日突然自分がいなくなるという現実が、どうしても実感として理解できない。

    簡単に死んでたまるか

    そうも思った。
    まだまだ五十代。
    そうやすやすと死神に持っていかれたらたまらない。
    家族のこと、会社のこと、気掛かりなことが山ほどあった。
    しかし全身の苦痛が日増しに激しくなるにつれ、そんな事情がいっさいがっさいどうでもよくなってしまう。
    二人の子供は大学生だし、妻には家もあるし、保険もおりるだろう。
    会社は…私一人がいなくなったところで仕事に支障が生ずるはずもない。
    病床で考えられるのは、せいぜいここまで。
    それから先はただ灰色の空白があるだけだった。
    生きたまま刻々と肉体が蝕まれていく過程は、私が漠然と想像していたよりもはるかに恐ろしい。
    まるで骨と骨の間に万力をこじ入れ、ギリギリと引き裂くようだ。
    それが毎日毎日何回となく繰り返して続く。
    もうこれ以上の苦しみはないと思った、その次の瞬間に、もっと激しい苦痛が襲ってくる。
    鎮痛剤も今ではほとんど効き目がない。
    ただ塩を浴びたなめくじみたいに身をよじって苦しむよりほかにない。
    なんのために?
    なんのためでもない。
    ただ死ぬためにこうして苦しむ。
    それだけだ。
    死に対する恐怖より、苦痛に対する恐怖のほうがはるかに激しい。
    いくらか痛みの薄らいでいるときでも、いまにやってくる苦しさを恐れて私はおののいている。
    そして、苦痛はかならずやってくる。

    助けてくれ

    何度言葉の出ない唇で叫んだか。
    今となっては、ただ"あれ"を待つよりほかにない。
    私は灰色の天井に映った、輪形の影を瞼に宿しながら朋友の佐伯一郎のことを思った。
    佐伯の言った言葉が、一つ一つ末期の福音のように耳の奥に甦ってくる。


    "あれ"を言い出したのは、佐伯のほうだった。

    もう三年以上も昔になる。
    ゴルフ場のテラスでビールを飲みながら…。
    あのころはあんなに元気だったのに…われながら信じられない。
    どうして佐伯が突然あんな奇妙なことを言いだしたのか…ああ、そうか、その少し前に佐伯の身内に不幸があって、それで佐伯はあのことを考えたのだろう。
    浅黒い顔に闊達な笑顔を載せて、
    「オレたちの年になったら、たまには自分で死ぬってことも考えなくちゃいかんな」
    と、佐伯は言った。
    そう言いながらもその実、彼自身本気でその問題を考えている様子はなかった。
    「そう。いつかは死ぬんだからな」
    「死ぬのは仕方ないが、どうせ死ぬのなら飛行機事故かポックリ病。苦しんで死ぬのはいやだ」
    「しかし、こればかりは当人の希望どおりにはいかんぜ」
    「それは、そうなんだが…」
    佐伯はタバコをくゆらしながら言い淀んだが、ふと思い出したように、
    「つい最近、叔父貴が死んだだろう。ひどい苦しみようでな。毛虫みたいに身をよじりながら一ヶ月以上も生きていたんだ。どうせ死ぬんなら、なんのために苦しませておくのか、オレにはわからん」
    「家族の者としちゃ、それよりほかにないだろうさ」
    「気持ちはわかるけど、あれは生き残る側のエゴイズムだな。あの苦しさはただごとじゃないぜ。さんざん苦しんだあとで、結局駄目なのはわかりきっているんだ。オレが病人なら間違いなく早く殺してほしいと思う。そうだろ?」
    「まあ、そうだな」
    「本当にそう思うか」
    佐伯は少し気色ばんで念を押した。
    「ああ。オレだって痛いのは嫌いだ」
    そう答えた私の気持ちにも嘘はなかった。
    佐伯はウンウンと顎を撫でながら頷いて、
    「そうなんだ。だから、どうだい、おたがいに元気なうちに約束しておこうじゃないか」
    「なにを?」
    「安楽死友の会を作るんだ」
    「安楽死友の会?」
    「うん。今のとこ、会員はあんたとオレだけでいい。どちらかがどうにも助からない病気になったとしよう。苦痛がものすごかったり、植物人間になったりしたら、生きている意味がない。当人にとっても生き続けるのは本意じゃあるまいし、家族の苦労も大変だ」
    「ああ」
    「そんなときに、片方が冷静に判断して、こっそり病人を安楽死させるんだ」
    「なるほど」
    「あんたとオレの間なら、約束が守れそうな気がするからな」
    佐伯と私とは高校時代からの友人だ。
    サッカー部では文字通り同じ釜の飯を食った。
    大学を出ると、それぞれ違った会社に勤めたが、親交の深さは変わらなかった。
    おたがいにこれ以上に親しい友だちはいなかった。
    私は小首を傾げて、
    「しかし…うまく殺せるかどうか」
    「その点はもちろん考えた」
    「どうする?」
    「薬はオレが手に入れる。あんたにもあらかじめ分けておこう。どのみちそのときの病人は瀕死の状態だ。本気になって殺してやろうとすれば手段はいくらでもあるさ」
    「そうかもしれないが…」
    「実行できないのは、病人を取り巻く連中がみんな罪の意識を背負いたくないからさ。言っちゃあわるいが、本当の親切心がないからなんだよ。オレは自分の叔父貴の死にざまを見て、つくづくそう思ったね。病人が苦しむのはな、生き残ったやつが"あれだけ手をつくしたのに駄目だった。仕方ないんだ"って、そう思うためのものさ。死んで行く者のラストサービスだよ、あれは」
    「うん、うん」
    「しかし、家族にねがっておいても、なかなか殺してはもらえないし…そこで、おたがいに約束しておこうというわけなんだな」
    「本気かね」
    「ああ、本気だ」
    「まかり間違えば殺人罪だぜ」
    私がこう言ったとき、それに答えた佐伯の凛々しい眼の色を忘れることができない。
    彼は少年のように明るく笑って言った。


    「そのとおりだ。しかし、かいのない苦しみを続けている友人のためなら、オレはその危険を負担する覚悟があるぜ」
    私は驚いて佐伯の顔を見上げた。
    男同士の熱い友情が、五十歳を過ぎた男には照れくさいほど真摯な信頼感が、二人の間にフッと漂って消えた。
    いや、私だけがそう信じたのかもしれないが…。
    「どうかね」
    佐伯は視線を鋭くした。
    「よかろう」
    「じゃあ約束しよう」
    初めはその場限りの、ただの冗談だと思っていたが、佐伯は思いのほか熱心だった。
    四、五日たった昼休みに私のオフィスに訪ねて来て、彼はカプセルを置いた。
    「なんだ、この薬は?」
    「忘れたのか。ゴルフ場で約束したじゃないか。安楽死友の会だ」
    「ああ、あれか」
    「錠剤一つを飲み水の中に入れればいい。点滴液の中でもいい」
    「死体解剖をしたら?」
    「それはわかる。しかし、瀕死の病人が死ぬんだ。そのケースはないさ」
    「わかった。預かっておこう」
    「じゃあ、友の会の設立を祝して今夜一杯飲むとするか」
    「よかろう」
    あの夜は二人連れだって、梯子酒を楽しんだ。
    「友の会バンザーイ」
    「友の会のために」
    ジョッキをあげて乾杯した風景も、私は今、はっきりと眼の裏に呼び戻すことができる。
    とはいえ、私はこの約束をそれほど真剣なものとは考えていなかった。
    佐伯がいい加減な気持ちで言ったのではないと、それはよくわかっていたが、なにぶんにもあのころは死が遠かった。
    死を差し迫ったものとして考える必要がなかった。
    それが…たった三年のうちに事態が急変した。
    死は思いがけなく私のすぐ近くにいた。
    こうしてベッドの上で苦しんでいると、いやでも"あれ"を思わずにいられない。

    あいつは約束を守る奴だ

    しかも私は、自分の病状がまさに友の会の発動をうながす状態にあると確信している。

    いまに佐伯がやってくる。
    それが私の死ぬときだ

    そう考えるのは、ある種の恐怖の原因とならないでもなかったが、そんな恐怖も激痛が始まると、たちまちどこかへ吹き飛んでしまう。

    早く来てくれ。もうオレは駄目だ。早く…早く…頼む

    必死に念じながら、私はただ、病苦の跳梁に身をゆだねるばかりだった。

    待てよ。あいつが来ないのは、まだ…オレの病状に脈があるからかな

    かすかな明るさが心をよぎったが、すぐに光も消えた。
    病魔が日を追って着実に全身を冒しているのは、だれよりも私自身がはっきりと知っている。
    家族の者だってそれを知らぬはずがない。
    とすれば、その知らせが佐伯のところまで届かぬわけもない。



    私はわずかな水を口に含むときにも、そこに佐伯の贈り物のあることを思った。

    点滴の装置を見上げながらも、そこに佐伯の善意が潜んでいるのを願った。
    廊下に足音が聞こえる…。
    ささいな物音にも佐伯が来たのではないかと、おぼろな意識を研ぎ澄ました。
    そうしているうちにも苦痛はまた襲ってくる。
    痛みはさらに激しくなる。
    苦しさのあまり鉛の体が弓のようにしなう。
    全身をどうよじってみても、苦しみは少しもやわらいでくれない。

    早く来てくれ。
    一日二日長く生きたって仕方ない

    混濁した脳裏に佐伯の明るい笑顔が浮かんだ。
    その表情は明るすぎるようにも見えた。
    急に不安が駆け抜ける。
    笑顔の背後に深い悪意が潜んでいるような気がしてならない。

    どうして、あいつが

    半生の思い出が、断片的に心に浮かんだ。

    そう言えば、佐伯が金を借りに来たことがあったっけ

    奥さんが病気で家がゴタゴタしているときに、佐伯は女に手切れ金を支払わなくてはいけない羽目になった。
    どうしても内緒の金を捻出する必要があって、私のところに百万ほどの金を借りに来た。
    私は断った。
    金がなかったわけではないが、あのときはこっちも家を買おうか買うまいかと考えていた。
    佐伯ら高利の金に手をつけ、その後大分苦労したらしい。
    会社の役員になれなかったのも、そういう金銭問題と無関係ではなかったようだ。

    今でも恨んでいるのだろうか
    そんなケチなやつだったのか

    考えてみれば、長いつきあいであればあるほど、心の奥底にライバル意識や深い怨嗟が積み重なっている。

    もしかしたら…あのときの恨みかな

    学生時代に、喫茶店のウエイトレスを奪い合った、、
    私はうまく佐伯を出し抜き、軍配は私のほうに上がった。
    そのウエイトレスとの仲も、そう長く続かなかったし…佐伯はそんなこと、すっかりわすれてくれたものと考えていたが…。
    一つ一つ思い返してみると、親友などという概念がいかに虚妄であったか、そのことばかりが心に甦ってくる。
    また激痛がこみ上げてきた。

    馬鹿野郎
    なにをしている
    オレを苦しめるのが、お前のほんしんだったのか
    殺人者の危険を冒してまで、助けに来てくれると言ったのは、だれなんだ

    私は長い苦痛の時間を通して、ただひたすら友の助けを祈り、その裏切りを呪った。
    呪いながらも、また繰り返して友の助けを願った。

    業病の苦しさは、それを体験した者でなければわからない。
    しかも体験した者がみんな死んでしまうとなると、いったいだれがその本当の苦しさを語ってくれるのだろうが。
    病人たちは、ベッドの中でのた打ち廻りながら、こらえ、苦しみ、祈るよりほかにない。
    「馬鹿野郎。なにをしている。オレを苦しめるのが、お前の本心なのか。せっかくの約束はどうなったんだ」
    その男はベッドの中で繰り返し繰り返し呻いた。
    その男…佐伯一郎も同じ病魔に冒され、友の決断を待ちながら、その不誠実さを長く、苦しく、死の一瞬まで呪い続けていた。






















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    恵子は、まっ黒い、大きな犬と一緒にマンションの一階に暮らしていた。
    ペットの飼育が許されているのは幸運だった。
    犬の名はブラック。
    雄犬である。
    仔犬のときから飼っていたわけではない。
    知人が外国へ行くため、無理に頼まれて飼うことになった。
    犬を飼いたいとは思っていたけれど、飼うなら小さい犬のほうがいいだろう。
    ブラックは手足を伸ばすと、恵子の肩の上までらくに届く。
    目方も恵子と変わらない。
    「でも、大きい犬のほうが性質がいいのよ」
    知人がそう言っていたが、嘘ではなかった。
    ブラックは温和で、利巧で、聞きわけがよい。
    新しい女主人にもよく慣れ、よく仕えた。

    わるくないわ

    日時がたつにつれ、人間と犬のあいだに友情が深まった。
    ブラックは召使いから恋人までの役割を上手に使い分けた。
    恵子は二十九歳。
    銀座のブティックに勤めている。
    容姿もほどほどに美しいから、男たちに誘われることも多い。
    まったくの話、高校を出るか出ないかのときからその手の噂はたくさんあった。
    ラブレターのたぐいも箱にいっぱいになるほどもらった。
    恵子も恋には充分に関心があった。
    周囲に群がる男たちの中から、自分の好みにあう男を選んだ。
    初めは三人くらい…
    それが二人になり、一人に絞られる。
    映画を見たり、ドライブに行ったり、すてきなレストランで食事をしたり…。
    男は誕生日に花を贈ってくれた。
    クリスマスには、
    「奮発したんだ」
    そう言って美しい紙に包まれた箱をさし出す。
    中には金色のペンダントが光っていた。
    恋が深まるにつれ、男は恵子の体を求めた。
    「さ、行こう」
    「ええ」
    予測していたことであった。
    恵子は頷き、ホテルまですなおについて行った。

    幼い頃、恵子は、見てはならないものを見てしまった。
    自分が住んでいた家で起きたことなのに、ひどくぼやけた部分がある。
    細かい部分までしっかり記憶に残っていてよさそうなものなのに、いつも思い浮かぶのは、黒い背景である。
    背景の底に母が臥せている。
    白い脂肪の塊みたいなお母さん…。
    でも、それが母だとわかったのは、少しあとになってからのことだった。
    まっ赤な男がそばで笑っていた。

    どうして、あんなに赤い顔だったのかしら

    お酒を飲んでいたから…
    わからない。
    本当は、顔はちっとも赤くなかったのかもしれない。
    男の下半身は、むき出しだった。
    そして、猛々しいものがまっ赤にそそり立っていた。
    魔物みたいに光って、そのもの自体が邪悪な笑いを浮かべていた…。

    初めて恋人に抱かれたとき、突然、わけもなく恵子の脳裏に、むかし見たイメージが現れた。
    黒い背景に、まっ赤な笑い…。
    「いやッ」
    力いっぱい男をはねのけた。
    あっけにとられている男を背後に、恵子は衣服をかかえて逃げ出した。
    「ごめん」
    男は追って来て謝ったが、日時がたてば同じ誘いをくり返す。
    恵子はまた同じイメージが浮かぶような気がして、恐ろしい。
    誘われても誘われても、かたくなに拒んだ。
    しばらくはそんなことが続いた。

    いつまでも子どもみたいなこと、言っていられないわ

    三人目の男に誘われたとき、恵子は意を決して凌辱に耐えた。
    いまわしいイメージはやはり浮かんだ。
    全身を棒のように堅くして目を閉じていた。
    「初めてだったのか」
    「ええ」
    「すぐに慣れるよ」
    だが、けっして慣れることはなかった。
    どうしてもなじめない。
    我慢をするだけの営みでしかなかった。
    好きな男と一緒に映画を見たり、ドライブに行ったり、食事をしたり…そこまではまちがいなく楽しい。
    だが、男たちはけっしてそれだけでは満足しない。
    求めるものがはっきりして来ると恵子はうとましくなる。
    自分が適応できないことが悲しい。
    引っ込み思案になりデートそのものまでもが少しずつ楽しさを失っていく。
    男たちにとって、こんな女が好ましいはずがない。
    恵子の容姿に引かれても、
    「なんだか暗いんだよなあ、彼女」
    「ちょっと潔癖すぎるんじゃないのか」
    と、鋭敏に察知して二の足を踏む。
    二度、三度と抱きあっても、恵子がますます嫌悪の態度を濃くするのを見て、男たちは立ち去って行った。 
    そのたびに恵子の心は切り裂かれた。
    恵子としては、なんとか男の意思にそおうとするのだが、脳裏にいまわしいイメージが浮かび、
    「いやッ」
    と、われ知らず拒否の感情をあらわにしてしまう。
    どうにもならない。
    二十代が駆け足で過ぎて行く。
    三十歳を目の前にして、

    この人なら

    という男にめぐりあった。
    面ざしはいかついが、心根はやさしい。
    この男なら幸福な結婚を約束してくれるだろう。

    これが最後のチャンスなのかもしれない

    ブティックの店員なんて一生を賭けるほどの仕事ではない。
    恵子は人並みの結婚を望んでいた。

    今度こそ

    決意は固かった。

    サイコセラピストは、恵子の話を聞いて、
    「めずらしいことじゃないわ」
    と言う。
    「そうなんでしょうか」
    「前にもなおしたことがありますのよ」
    頷きながら一本の矢を恵子に渡した。
    「これをベッドの脇に置きなさい。いやなイメージが湧いたら、これを突き立てるんです。いいですか。この鋭い矢で、あなたの心の中の魔物を殺してしまうのよ。夢の中でもかまいません。いつでも心に浮かんだら、この矢を突き立てなさい」
    「はい」
    恵子は半信半疑だったが、今までの成功例をいくつか聞かされて

    そんなこともあるのかもしれない

    と思った。

    恵子は男を家に招いた。
    機はすでに熟していた。
    アルコールの酔いが、ぎこちない時間を追い立て、さりげなく二人をベッドへ導いてくれた。
    「好きだよ」
    「私も」
    やはりいまわしいイメージは現れた。
    黒い背景に赤い顔で…。
    恵子は目を閉じたまま、心の中で矢を突き立てた。
    ギャッ。
    声を聞いたように思った。
    「どうした」
    男が怪訝な様子で体を起こす。
    「いえ」
    かぶりを振った。
    心が急に軽くなった。
    体の緊張が解けていく。
    男の動きが激しくなった。
    恵子はそっと目をあけた。

    あら

    男の表情がなにかに似ている。
    そう思ったが、すぐには思い出せない。
    かすかにいやしいもののように思えて、急いで目を閉じた。

    いまわしい魔物は死んだらしい。
    心の中にわだかまっていたものが消えたのは、本当だった。
    恵子は夢の中でも魔物を殺した。
    二度目に男に抱かれたときも、恵子はベッドのかたわらに矢をおくことを忘れなかった。
    歓喜が胸に込みあげて来る。
    「ねえ、ブラック。もう、私、大丈夫なのよ」
    恵子はブラックを呼び寄せ、抱きしめた。
    この喜びをだれにうちあけていいかわからない。
    ブラックにこそうちあけるべきだろう。
    もっとも忠実な友人、恵子の心の秘密をけっしてほかに漏らしたりはしない。
    「ねえ、わかる?お前も喜んで」
    女主人の喜びようは今までにないものだった。
    しっかりと抱きしめた。
    ブラックは戸惑った。

    これは愛の仕ぐさかもしれない

    とブラックは思った…。
    恵子は、はっとして体を離す。
    「いやッ」
    思わず叫んでブラックを押しのけた。
    ブラックの下腹に赤いものがそそり立っている。
    表情がいやしい。

    あの人の、あのときの顔

    なにかに似ていると思ったけれど…。
    矢を取った。
    ブラックに突き立てようとしたが、それはできない。
    矢が折れた。
    ブラックは異変の真相を知りえない。
    女主人の激昂を前にして、ただ恐縮しながら、矢の一端をくわえた。

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    昼過ぎから降り出した雨は日暮れて雪に変わり、夜半を迎えるころには風さえまじえて激しい吹雪となった。
    北風は黒い天に白い渦を舞わせ、時折りコーッとかすれた声を響かせる。
    鉄塔を伝わり、電線を左右に揺らし、ヒューヒューとわびしい冬の口笛を吹き鳴らした。
    赤いガスストーブの火の燃える四畳半では三十歳を過ぎた兄弟が二人、浅黒い小太りの兄と色白の端正な顔立ちの弟とがコップに熱い酒を酌みながら昔がたりに興じていた。
    家族のものたちはもうみんな眠りについたのだろうか、二人は袋の底に残ったわすかばかりののしいかを細かくちぎって、しきりに口に運んでいた。
    どうしてそんな話題になったのか、たぶんその夜のおどろおどろしい風情が、二人の心を不可思議なものへと誘ったのだろう。
    今はない父母たちの思い出話も尽きるころ、弟がいくぶん顔をこわばらせて兄に問いかけた。
    「ねえ、にいさん。人が死ぬとき親しいもののところに"知らせ"が来るってはなし、聞いたことあるだろう?」
    「ああ。戦争に行ってるはずの親父がボンヤリ裏庭に立っている。それを見た家族のものが"おかしいな"と思っていると間もなく電報が来て、ちょうどその時刻に親父が戦死していたとか…よく聞くじゃないか」
    「うん。それで兄さんは信ずる?そんなこと」
    「信じやしないさ。作り話か、さもなきゃ…」
    兄は弟の表情が思いのほか真剣なのに気づいて、言葉を区切って問い返した。
    「おまえは信ずるのかい?」
    弟は答えなかった。
    答えずにコップの酒をグイと飲み干し、ふと思い出したようにつぶやいた。
    「兄さん。兄さんは母さんと永平寺の墓地に行ったことがある?」
    「永平寺?」
    兄はけげんな面持ちで問い返す。
    それは二人が少年時代を過ごした町の、たしか郊外にある小さな寺の名前だった。
    「永平寺って…S村のか。うーん、そういえば母さんと一度くらい行ったことがあったかなあ」
    「オレは母さんと何度も行ったんだよ」
    「ほう?」
    「あそこにだれの墓があるか知ってる?」
    「いや知らん。母さんの親戚じゃないのか」
    「オレも最近になるまで知らなかったのだがて」
    弟はここまで話すと、またコップに酒をつぎゆっくりと飲み干した。
    「さっきの死んだ人が知らせに来る話だけど、実はむかしこんなことがあったんだよ」
    弟は兄の顔を見すえたまま語り始めた。

    あれは、たしか昭和23年の12月25日、やはりこんな雪の夜だったと思う。
    おれは8歳。
    兄さんと二人で二階の、ほら、広場に面した子ども部屋に寝ていたんだ。
    どうしたわけか真夜中に急に目をさましてね。
    古びた鳩時計が掛けてあったけど、あれが「ポッポッ」と二つ鳴ったんで「まだ朝は遠いんだな」と思いながら、しみだらけの天井をボンヤリと見つめていたんだ。
    そのうちだれかが部屋の外に立っているような気配を感じてね、寝返りを打って広場に面した窓のほうへ目を向けたんだ。
    兄さんも覚えてると思うけど、あそこには開かないガラス窓があって、その内側に障子が張ってあった。
    その障子にウッスラとタテ長の影が映っていて、それがユラユラと小きざみに動いている。
    人の影のようにも見えるし、なにか木の影のようにも見える。
    もちろん二階の窓に人の影が映るはずもないし、さっきも言ったようにちょうど12月25日のことだろ。
    クリスマスの夜だったから、オレはてっきり「サンタクロースが来たんだ」と思い込み、期待と恐怖の入り混じった、おかしな気持ちでしばらくはその影を見つめていたのさ。
    けれど、なんだか様子がおかしい。
    これはサンタクロースではない。
    なにかもっと恐ろしいものにちがいない…子どものことだから、そうハッキリ言いきるほど明確な意識を持ったわけじゃないけど、とにかくそんな気持ちになったとき、影はスーッと力なく障子に近づきカタカタと窓ガラスをたたいた。
    そして次の瞬間、マッチ箱ほどの障子の破れ穴を通して、妙にうつろな、それでいて射すような鋭い目差しがハッキリと見えたんだ。
    「だれなの?」
    声を掛けたが返事はない。
    オレは大急ぎで隣に寝ている兄さんを揺り起こしたんだけど、兄さんはグッスリ寝込んでいて、とても起きてくれそうもない。
    窓の目はしばらくのあいだ、オレを見つめていたけど、そのうちに影がまた力なく揺れて障子を遠ざかろうとしたのさ。
    「逃げるんだな」
    こう思ったとたん、なんだか勇気が少し湧いて来てオレは飛び起きて窓のそばへ駆け寄り、障子をサッと開いた。
    窓ガラスには吹き寄せる雪が凍りついてて外はハッキリと見えなかったけど…すごかったなあ。
    闇の中で雪を浴びながら端正な男の首が口から血を吐いて風に揺れている…。
    ハッと思ってオレがもう一度よく見ようとしたとき、急に男の首はスーッと遠さがり、黒い夜と白い雪の中に鮮血を散らしながらおぼろな影となって舞い上がり、そのまま闇の中へ消えてしまったのさ。
    オレはわれを忘れてぼう然と空のむこうを見つめていたんだけど、少し気持ちが落ち着いて来るにつれ、今見たものが風にあおられた凧ではないかと思ったんだよ。
    兄さんも知ってると思うけど、田舎には雪女郎をかいた変な凧があっただろ。
    もし、あの凧の口元に赤い絵具を散らしたら、ちょうどあんな顔立ちになるんじゃないかな。
    床に戻ってからもしつこくその顔が目頭に浮かんで来たけれど、とにかく自分一人で凧のしわざと納得し、夜があけるまでまんじりともせず過ごしたんだよ。
    それからあと、オレ自身どんな思いで毎日を送ったか、そのへんはどうも記憶がないけれど、何日かたった後で母さんにこの話をしたときのことは今でもハッキリと覚えているよ。
    母さんは凧が血を吐いてた話を聞くとパタンと仕事の手を止めて、
    「それ、いつのこと?」
    「12月25日さ」
    母さんの顔からサッと血の色が引いて、まるで紙のように青くなり、唇がヒクヒクと震えた。
    オレはビックリしたな。
    「母さんは、どうしたの?」
    母さんはしばらくは黙ってオレの顔を見ていたけど、急に子どものオレにもそれとわかるような作り笑いを浮かべながら、
    「いえ、べつになんでもないのよ。きっと糸の切れた凧だったのね。近所の子が広場で揚げているのを見たわ」
    そういいながら今度はしみじみとオレの頭を撫でてくれたんだ。
    まあ、この話もこれっきりで終わればべつにどうということもなかったのさ。
    だけど、オレはこのごろになってあの出来事の意味が少しわかったような気がするんだ。
    もう父さんも母さんも死んじまったけどねえ…。
    去年オレは久しぶりに故郷に帰って永平寺の近くまで行ってみた。
    ついでに、母さんとむかし拝んだ、だれのやらサッパリわからない墓に行ってみたんだよ。
    そうしたら、兄さん、その墓にはオレが凧を見た夜に死んだ男が埋まっているんだよ。
    享年三十三歳。
    ずいぶん若死だったな。

    そのうちにだんだんと推測が生まれて来てねえ。
    あのころ、若い人の死といえば肺結核がいちばん多かった。
    墓の下に眠っている男は、きっとあの夜あの時刻に血を吐きながら死んだんじゃあるまいかってな。
    母さんはそれを知っていた。
    どうして母さんは、そんな男の死を知っていたのだろうか?
    オレには、その男が母さんにとって忘れることのできない深い関係の、だれにも伝えることのできない親しい間柄の男だった、そんな気がしてね。
    母さんはまだ若かった。
    多感で美しい女だったもんなあ。
    母さんはその男があの夜に死んだこと、そして溢れるほどに血を吐いて死んだこと、すべて知っていたんだろうよ。
    しかもその男がこの世の最後の一瞬に自分のところへ別れを告げにやって来るかもしれない。
    そんなことも漠然と考えていたのかもしれない。
    母さんが時おりわけもいわず永平寺の墓参りをしたのも、こんなふうに推測してみるとわかるような気がするんだよ。

    弟はここまで語り終えると一息を入れ、兄がついだまま冷たくなっている酒に口をつけた。
    兄はと見ると、一時は少し顔をこわばらせながら弟の話に聞き入っていたが、今では笑みを浮かべて、
    「なるほど。おまえの説によれば、その男は母さんの恋人だった。それでその男は臨終のきわになって空を飛んで母さんに会いに来たのだろう。ところがドッコイ母さんには会えず、お前に見つかってしまってエッサカエッサカ逃げ出した…」
    「つまり、馬鹿な幽霊だってわけ?」
    「まあ、そうだな。本当の幽霊さまだったなら、こりゃずいぶん間抜けな幽霊だぜ」
    兄は愉快そうに含み笑っていたが、弟はそんな兄をなじるように真顔で見つめて、
    「さあ…あの男の影が、あの夜母さんにも会ったかどうか、それはわからんさ。オレが見る前にもう母さんに会っていたかもしれないし。オレにはそんな気もするんだけど、まあ、しかし、会わなくてもよかったのかもしれないんだよ」
    「どうして?」
    「兄さん。オレはもうすぐ三十三歳だ」
    「それで?」
    「あの男の死んだ歳さ。オレはこのごろ鏡を見るたびに自分があの夜、雪の窓で見た顔にソックリなのに気がつくんだ」
    「………」
    「兄さん。オレの顔が少しも父さんに似ていないの、今まで不思議に思ったことはなかった?兄さんにも似てないし…」
    外ではもう風はやんだのだろうか。
    ひっそりと音は絶え、降る雪がすべての過去を埋めつくし、なにごともない無垢の世界を地上に作り続けていた。

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